2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧

神は死んだのか 私たちが見失ったのか

私たちは、幼い頃から、親や先生から、学業やスポーツ、家事、そのほか何らかの努力をし、何らかの結果、成果を上げることを求められてきました。私たち自身も、それを当然のこととして、何らかの努力をしてきました。 また結果や成果を求めてくる人も、大人…

八方塞になって見えてくる光がある

「人間コミュニケーションの語用論」という著書があります。 内容をかいつまんで説明すると 私たち人間がコミュニケーションするのは、 情報の伝達ということだけが目的ではなく、 情報の伝達という行為を通して、関係を形成することが目的であるというので…

日本全国が救貧院になっても

自らの「労働」の「代価」で生計を立てている人にとって、恐れていることのひとつは、リストラや倒産によって、あるいは災害や自らの疾病によって、職を失う事ではないでしょうか? 働きたくても働くことのできない人のために、生活保護制度があり、働く意欲…

健常という鈍感さ

諸行無常 諸法無我 すべては流れ変化していく おそらく この世の出来事・事象は 「一回性」「唯一性」の出来事なのでしょう いえ、「一回性・唯一性」に注目することを「弁別する」と言い 共通性を見出すことを「般化する」というのでしょう 世界の側が 全て…

立って歩けること自体が踊り

「私を探す旅 イサドラ・ダンカンを追って」文芸春秋刊 の著者 松原惇子さんによると、 <この宇宙にあるものは、すべて踊っている。動物も、草も木も花も、風も大気も。踊っていないのは人間だけだ>とイサドラは言ったそうだ。126頁 人間も踊っていると、…

「降りていく生き方」と「階級を選びなおす」

かまやつひろしの歌に「どうにかなるさ」という曲があります。 歌いだしは、 <今夜の夜汽車で 旅立つ俺だよ <あてなどないけど どうにかなるさ <あり金はたいて 切符を買ったよ <これからどうしよう どうにかなるさ この曲は、1970年4月に発表されました…

新芽新曲コンサート 7月27日

もう随分以前から、「人が踊る」ということに関心を抱き続けてきましたが、イサドラ・ダンカンという女性のことを知ったのは数日前です。 イサドラは、モダンダンスやコンテンポラリーの祖、踊りに芸術性をもたらした人と言われています。 ゆったりした服装…

愛することに「人間の二元論」を持ち込む躓き

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ 15: 12-13). 「菜食家」が、もし一片の小さな肉でも食すようなことがあると、「それは菜食家に…

不安を抱いたままの安心

「二元論に賛成ですか、反対ですか」と質問された時、賛成ならば「賛成です」とすんなり答えればいいのですが、「賛成ではない」とき、「賛成ではないです」と答えることは難しいことです。 「賛成ではないです」と答えると、(二元論を何の疑いもなく前提・…

コミュニケーションの語用論と愛

ここ数日、私の中でキーワードとなっている言葉は、「コミュニケーションの語用論」です。 辞書で語用論を調べると、「言語学の語用論」が表記され、例えばウィキペディアには、 <理論言語学の一分野で、言語表現とそれを用いる使用者や文脈との関係を研究…

「と」という助詞にちなんで

「〜と〜」という助詞、なかでも並列の助詞について、私は、十分使いこなしていると思っていました。 パンとバター、テーブルとイス、医師と看護師、針と糸 といった具合に、名詞を二つ並べ、その間に「と」を入れて使います。 実際、それらは横に並べること…

縁起の法を生きるということ たとえば注意するという行動を事例に

ある場面で、例えば子育て中に子どもの行動に対して、「あ、間違ったことをしている」と判断し、注意することがあります。 すこし瞑想的に観察してみましょう。 来週から期末試験が始まるときに、子どもさんが、夜遅く絵を描いていたとします。そこで「来週…