神は死んだのか 私たちが見失ったのか

私たちは、幼い頃から、親や先生から、学業やスポーツ、家事、そのほか何らかの努力をし、何らかの結果、成果を上げることを求められてきました。私たち自身も、それを当然のこととして、何らかの努力をしてきました。
                         
また結果や成果を求めてくる人も、大人になるにつれ、自分自身、親、家族、先生だけでなく、会社の同僚や上司、雇用者、為政者といった共同体を共にする人々が加わるようになりました。
                         
そうやって行動する中で、行為には何らかの結果、成果、到達、見返りを必ず得なくてはならない、そうでないと努力の意味がない、と思い込むようになっていったように思います。
                  
また、「普通の大人であれば、自らの力で、この世の中を生き抜かねばならない」と思い込んでいったように思います。
                    
 私は、「結果や成果など度外視すればいいのだ」と言っている訳ではありません。生きていく以上、社会生活を営む以上、何らかの成果を上げること、到達することを私たちは、現実的にお互いに求めあっています。
                      
 そして、あまりにも当たり前になりすぎて気が付きづらいことですが、
 「利子」を前提とした金融制度と資本主義社会の中で、経済生活を営む場合、働くものは最低限利子分以上の成果(利潤)を上げることが求められます。本人がお金を借りていなくとも、国や行政が借りています。製品の価格や税金の中に「利子分」が含まれています。電気料金や通行料金などの料金の中にも含められています。
                        
 生きていくためにお金を稼ぐ、お金を支払ってものやサービスを手に入れる、そうやって暮らしているうちに、
「かならず(利子以上の)成果を上げるべきだ」という経済的な要求が、ひとりの人間の生活全体、何もかもを支配してしまうことがあるように思います。
              
目標とする経済成長率が高くなれば高くなるほど、個々人に求められる成果は大きくなります。
大量生産、大量消費、大量廃棄によって、確かに物質的には豊かになったのかもしれませんが、同時に負債が増え、個々人に求められるものも増大してきました。
                 
一方、これといった経済的、現世的、世俗的な成果がみられなくとも、行為そのものの中に、意味を見い出す、喜びを見いだす、ということを忘れてしまいがちです。
また、起きたことを、あるがままに甘受するということも忘れがちです。
たとえ、理不尽と思っても、世界全体を信頼し、それを一旦は受け入れるということも忘れがちです。
                  
(芸術活動と言われているすべてがそうだとは言い切れませんが)行為そのものの中に、意義や喜びを見い出せるものごとのひとつに「芸術活動」があるように思います。ゴッホの絵は、今では何億円もするようですが、生存中売れたのは一枚だけです。
            
見返りや成果のことなど考えず、行為自体の中に喜びを見い出せる行為を取り戻していきたいものです。
理不尽と思うことがあっても、怨むことなく、世界全体に帰命する心を取り戻したいものです。
「利子」が私たちの生活にどのような影響を与えているか、じっくり感じたいものです。
        
 見返りを求め続ける世俗世界(緯糸社会・利子社会)にあっては、葛藤や苦しみは絶えることはないでしょう。
 自由でありながら迷い続ける緯糸を、道なき道で導いている経糸の存在を見失わずにいたいものです。