レイカイ文字?

不思議な夜でした。いつもなら、1時間半ごとに目が覚め、トイレに行くのに、昨夜は、朝方4時まで起きませんでした。楽しくて充実した夢を見ると同時に、線型図形が現れます。インデックス、シンボル化したものでしょう。

昨日の出来事の影響も゙あるでしょう。昨日見た演劇の中に手話が一部でてきました。全くの記号化した手話。感情のない手話。平面的な手話。視話。今こうして、スマホに書いている文字も゙平面的で、3次元世界に対応したもの。

波動は、人間が切り取るから、波形に見えるので、実は球形やそれ以上なのでしょうね。

無意識、意識と主語

朝の瞑想中に降りて来た言葉は、「意識」。無意識だけでなく、意識も主語になり得るか?と自らに問う。日常会話的には可能。でも、現象学関連の本の中に、「意識は、何かについての意識。』とあった。意識も無意識も、独立主体にあらず。

世界の多くの言語文法は、主語と述語からなる。そういう言語を使うから、主語、主体があるかのように思ってしまうが、主語、主体は、実在、世界全体なのでは、と思う。雨が降るように、意識も舞い降りる。

夏祭に思う 無老死亦無老死尽

釈迦は、人生には生老病死があり、人はそれを苦しみとする、と言いました。文化、文明の力で環境が変わったとしても、どの時代にも、老死は尽きないでしょう。縄文時代の平均寿命は、15歳、江戸時代で30歳と言われます。昭和20年では、50歳。般若心経において、仏陀は、老死の尽きることはない、と同時に、老死もない、と言います。今年の夏祭は、過ぎました。無老死尽。来年、心あらば、夏祭は、開催されます。夏祭だけでなく、ひとのからだの細胞も、毎日お祭り。過ぎ去っては、また新たに生まれています。

主観的写実主義 安井曽太郎

絵を描くのが苦手だったので、日本の美術史や美術教育史には、あまり関心がありませんでした。昨年から、色鉛筆で描くようになり、臨画という言葉に出会って、教育史に興味をもちました。最近、桂文枝さんの似顔絵を描いていて、文枝さんが、安井曽太郎氏の絵に感銘を受け、高校一年まで、絵画教室に通い、今も描かれていることを初めてしりました。

からだは不思議

私のからだ、肉体と、私達は日常の中で、いとも簡単に表現するけれど、私達は私達自身のからだのことを、どれくらい知っているのだろう。随分昔に、泪は三層になっているとききました。その厚み0.01ミリ?

改めて不思議と思い、カラーボールペンで、絵にしました。