自由意志があるにしてもないにしても

< 自分自身を知ることにつながる問題提起 > (行動分析学ベイトソン

            
「自由意志に基づく行動と真に言えるのは、具体的にどういう行動の事でしょうか?」
「馬鹿!と罵倒され、ありがとうと言えること」
「もしかして、自由意志に基づく行動というのは、ないのかもしれません」

             
泣いたり、笑ったり、腹を立てたり、優しくしたり、自分では、自由意志で行動していると思っていても、実は外界の刺激に対して、反射的に、習慣的に行動しているのかもしれません。
 
                   
こういった問題提起を、自らに由って発したことがない場合は、読み飛ばしてください。
 
             
私たちの一日は、実に様々な、動作、行為、行動で成り立っています。それらは全て、はたして、自らの意志に基づいて行動されているのでしょうか?

          
止めようと思っても止められないこと、止めさせようとしても止まらないこと、酒、煙草、薬、嗜好品、浮気、パチンコ、パソコン、ゲーム、喧嘩、口調、早や飯、これらは個人の意志の問題でしょうか?

           
ひとつひとつの動作、行為、行動において、真に決定づけているのは何でしょうか?

          
日常の生活感覚からいえば、皮膚の内側が「自分自身」であり、自分の心・魂・霊・脳などが自分自身を動かしている、というイメージを抱いている人が多いと思います。

           
隣の人が虫歯でひどく傷んでいても、自分自身は全然痛くないし、また肉親や自分自身がこの世からなくなっても、世界の側はいつもの姿とさほど変わらないし、変わらないだろうから、私と世界はやはり皮膚を境に隔たっている、世界から独立して、「自分自身」という主体が存在する、という見方をしている人が多いのではないでしょうか。

           
「世界から独立した主体」が存在するかどうかについて、面白い実験があります。
その実験は、今では禁止されていますが、感覚遮断実験です。
感覚遮断実験とは、意図的に外界からの刺激を遮断した状態にひとをおきます。長時間そういう状態の中にあると、幻覚を生じたりして、正常な精神状態を保つことができなくなります。

         
特急電車で、車窓から外を見ますと、遠くの風景はゆっくりゆっくり流れていき、風景を楽しむことができます。しかし、線路際の風景はすごいスピートで流れていき、見ていると疲れます。これも一種の感覚遮断状態と言えるでしょう。
 
           
フェイスブックもまた、大量の情報が流れていきます。特急電車の場合のように、近くを追いかけるのではなく、遠くを見ればいいのでしょうが、ついついフェイスブックにおける線路際に注目してしまうと、大変疲れます。
       


以上の事から、自己自身は、環境から独立した主体ではなく、環境とシステムをつくっている、相依性の関係にあるという見方が成り立ちます。

         
仏教では、2500年前から、瞑想で観察した結果、人間は五蘊である、
つまり色受想行識である、と言ってきました。色(外界)と受(感覚器官)想行識(認識作用)の縁で成り立っていると。

         
世界から独立した主体が、自由意志に従って、色々な行動を決定しているようで、実は無条件反射や条件反射、学習によって身につけた習慣行動であったりします。

          
ここで述べていることの目的は、「世界から独立した個人に基づく自由意志」が存在するかしないかを、机上で議論することではありません。

           
苦しみの解決において、「独立した個人に基づく自由意志」が存在するという見方・前提が全てではない、「自由意志はないという前提」や、逆に「全体論的・システム論的な自由意志を前提することもできる」と知ることによって、今までの解決法とは違う解決法が考えられることを述べています。

            
「自分の自由意志で自分自身を変えよう、あるいは相手の自由意志によって、相手に変わってもらおう」とする前提は、そもそも無理があるのかもしれません。
逆に、自分や相手ではなく、システムの一部が変わることで、変わることもあり得るということです。
 
          
また、「世界から独立した個人」はなくとも、個人には「システムに組み込まれつつの独自性」があって、それゆえ、全くの自由意志ではなく、システムの文化や制度を頼りに、ある程度の幅を持ちながら習慣的反射的に行動しているのかもしれません。ところが、システム(共同体社会)の側も永遠不変ではないので、システムが変化し、拠り所となる規範を失うことで病理が生まれる場合もあるように思います。

          
ゆえに、前提が変われば、変わらなくてもいい場合だってあるのかもしれません。例えば、「善人名をもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」