あなた自身の「暦」を描く

自分の外部に、スケジュールを書く、あるいはスケジュールをつくる動物は、おそらく人間だけでしょう。「自分の外部に」とわざわざ言ったのは、渡り鳥とか植物だと、からだの中、遺伝子にスケジュールが描かれているように思うからです。
       
それはさておき、人間の場合、スケジュールを書くということは、スケジュールを書く基になる「暦」がまずあるということになります。
「暦」と言えば、私たち日本人は今では、今日は何月何日である、何曜日である、西暦何年、と一年が365日、一週間が7日の太陽暦のことを思うでしょう。
   
 しかし、暦は、この太陽暦だけが暦ではありません。今は、多くの人が使っているというだけのことです。暦は、それを使う人々が住む地域の風土や生活との深い関わりの中で創られてきました。
 
 暦が創られることには、そこには共同体社会があるということがもとになっています。
 長い歴史の中で、どのような暦が創られ、どのように変遷してきたか、と言う研究もあります。
 
 私がこれから述べようとするのは、そういった公共の暦の事ではなく、公共の暦とかかわりを持ちながらも、各個人が創っている暦のことについてです。
 
 一言で言ってしまえば、外部にある公共の暦は共通かもしれないが、各個人の内部にある個人の暦は人それぞれ違うというごく当たり前のことです。
 私たちは、公共の暦と自分自身の暦を両方参照しながら生きているということを述べようと思っています。これもごく当たり前のことですね。

 なぜこんな当たり前のことを言うのかと言えば、他の動植物たちと違って、人間が文明社会を生きていくには暦は欠かせないけれど、公共の暦にしても個人の暦にしても、人間が創りだした暦は、仮設であると思うからです。
 
「仮設」などという言葉を使用したのは、遺伝子の中に組み込まれたようなものではないと思うからです。ペットや家畜ではない動植物たちは、体内に組み込まれた暦に従って生きていると思うのですが、人間各個人は、それに代わる暦を創れていないとおもうのです。

おおよそ公共的な場面では、公共の暦を使用しているけれど、個人的な状況では、暦を参照するのではなく、行き当たりばったりの行動をしているように思うのです。あるいは、有効な暦を内部に作りえていないように思うのです。

そんなことはない、と思う人は、自分の一日の行動を、できるだけ小さな単位に分けて記録してみるといいと思います。外部からの刺激に対して反射的に行動する、習慣的に行動するということが多いことに気が付くことでしょう。あるいは、自分の住む共同体のしきたりや文化、決まりに従って行動する。

共同体の時間的なしきたりや決まりを書いたものが暦でしょう。

共同体のしきたりや決まりも、時代の流れと共に変化してきました。
共同体のしきたりや決まりだけを拠り所にする人は、しきたりや決まりが変わっていくことに、ついていけません。また、今までのしきたりや決まりと大きく外れた行動をする人は、共同体から非難を浴びやすいです。しきたりと個人のせめぎありは、いつの時代もあったことでしょう。
          
放射性のヨウ素を体に取り込むと、数年のうちに甲状腺がんを発症しやすくなる、という暦はまだ一般的になっていないのかもしれません。だから、旧態依然、具体的な行動に繋がらない。しかし、これまでがそうであったように暦は書き換えられていくことになると思います。