フラジャイル(fragile)な信仰 弱いときに強い

「人類の進化」とか「成長」「発展」という言葉が、私の中に入ってきて定着したのは、いつの頃だったろうか? どのようにして入ってきたのだろうか?
        
小学生の頃みた、東京オリンピック(1964昭和39年)新幹線の開通(1964)アポロ11号の月面着陸(1969)手塚治虫の漫画、ダーウィンの進化論などを通して徐々に入ってきたように思います。
 高校生の頃には、人類はやがて独占資本主義を経て、次の社会体制へ移行するのが歴史的な流れであるとも思っていました。
 しかし、高校生活の途中や卒業した頃から、ベトナム戦争水俣病を代表とする公害を目にし、スムーズには移行しないという思いもありました。
それでも、紆余曲折を経て、人類は「進化」するだろう、個人の人生の意味はその進化に貢献することにある、と基本的には最近までは「信じ切って」いたように思います。というのは、2011年3.11以後の政治状況をみて、やっと「信じ切っていた」ことに気が付きました。
     
「信じる」ということと「信じ切る」ということは違う、と私は今は思います。私の辞書の中でははっきりと違うものになりました。
     
私の辞書では
「信じる」というのは、「信じ切れない状況と我が身の脆さ」があると自覚しつつ、それでも信じる側に立つこと。「信じ切る」というのは其の文字どおりです。眼を閉じたまま、あるいは、視点を固定して信じること。ゆえに「信じ切る」ということは妄信につながる危険性があります。「脆さ」「弱さ」に対する目を塞いでいる面があります。生きることに意味などない、と云い切ってしまうことこそ、私にとっては、(唯物観や無意味論、虚無感を)信じ切った姿です。
        
私にとって「信じる」というのは、信じようとして、しかし、打ちのめされ、打ち壊され、弱さを知り、脆さを知り、とても信じられないような状況になって、なおかつ、そこで信じることを言います。
       
現実世界、世俗世界(緯糸社会)はいつも時代も、これからも混沌としていて、迷いの中にあると思います。放射能の害が現れるのはこれからでしょう。私たちは脆く、弱い。
       
そんな世界を、縦に貫く永遠の光の経糸がある、と私は今は感じ、信じています。
それは心を、明日ではなく、今ここにあわせていきる時に感じると

進化という言葉が私の中で定着したのは、外部(親や先生)から、「目的・目標を持って生きなさい」と言われ続けてきたことも大きく影響してきたと思います。人間というのは、行き当たりばったりになりがちだ。それではいけない。人生に目標を持ちなさい。個人の生の目標は、人類全体の目標に通じ、進化が人類の目標であると。しかし、進化の内容を問わない、検証しない進化は、いったい何をもたらしたのでしょう? 中身のない未来の理想の為に、どれだけ今ここを、他者を手段にし、犠牲にしてきたことでしょう。 「進化」という言葉を検証しないで「信じ切る」のはやめたらどうでしょう。

フラジャイル(fragile)という言葉を、松岡正剛氏のHPで知り、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」「弱いときにこそ強い」という言葉を、小田垣雅也氏の著書を通して知りました。