自然心理学茶話会 1月26日

知られざる時代の知られざる物語

○はじめに

 「人間は物語で考える」(グレゴリー・ベイトソン 「精神の生態学」)「遊びをせんとや生れけむ」梁塵秘抄


 今から約400年前のこと、ヨーロッパで、ルネ・デカルトという哲学者・数学者が、
「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis (フランス語)と述べました。

 どうしてこんなことを言ったのかと言うと、

 デカルトさんは、真理を追究する中で「今まで何の疑いも持たずに、この世に存在すると私が思ってきたものは、はたして本当に存在しているものと一致しているのだろうか。一旦疑いだしたら、一致の確信が持てない。」と思いました。しかし、「そうやって全てを徹底的に疑っていっても、疑っているこの私自体は、疑いようがない、確実に存在する」とデカルトさんは思い、先ほどの言葉を述べました。
 
 デカルトさんの「哲学的な」言葉は、「私」は疑いもなく存在するということを表明しただけでなく(証明ではありません)、以後の時代の世界観、人間観、自我観に大きな影響を与え続けてきました。

 近現代人の多くの人も、生きて考えて行動している独立主体としての私、あるいは皮膚に包まれ、環境から肉体として独立して(神とは関わりなく、一つの要素として)存在する私を疑わないことでしょう。

 と同時に多くの人は、霊とか魂ということばを日常会話で使うことがあっても、年老いて死んだら、私という存在もいなくなる、無になると思っているのではないでしょうか。
何らかの宗教団体に属している人であっても、神や仏、天国や極楽、あるいは地獄といった事柄は、実際には存在しないと思っている人も多いのではないでしょうか。


 老いたくないし、死にたくない。けれど、確実にやってくる老いと死。老いと死に向き合う事は、いつの時代の人間にとっても永遠の課題です。

 かつて日本では、「なむあみだぶつ」ということばが、多くの人々にとって救いとなった時代がありました。一度でも、心の底から南無阿弥陀仏を信じて唱えれば、極楽往生できると。その時代の人にとって、地獄・極楽は生活の中に息づいていたのでしょう。現世が十分地獄だったのかもしれません。

 南無阿弥陀仏と唱えると、極楽往生できるという根拠は、無量寿経というお経と導師にあります。
 
 お経によれば、ある国王が世自在王仏のもとで出家し法蔵菩薩と名乗りました。そして、仏に成るための修行に先立って48の誓願を立てました。そのうちのひとつが、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません」という願です。(第18願) そして、法蔵菩薩はさとりをひらかれ、阿弥陀如来になられているので、この願も成就する。つまり名号を唱えれば極楽往生できる。と無量寿経には述べられています。
                                       
 今この話を、阿弥陀仏誓願を「心から」信じている人はどれくらいいることでしょう。


 ただ、ある世界観・仮説、或る物語を信じ、その信心信仰に基づく行動の結果、課題が解決されるということは、現代でも数多くあります。

 そして今、近現代人の多くの人々は、考える主体としての自己が物質的に存在するという物語、合理的科学に基づく物語を信じて生きています。

 この物語に従って、経済や医学が発達し、物質的な豊潤さ、長寿社会が形成されましたが、近年においては、個人の自由と尊厳物語、自己実現物語、最大多数の最大幸福物語が、一方では格差社会、環境破壊、疎外など、苦しみも産みだしているという問題があります。(近代科学も一つの物語信仰でしょう。)

 
 ある物語の範囲内で、問題が解決されないとき、それとは別の物語が必要となります。

 例えば、世界はばらばらに独立した個物が集合してできあがっているという要素論的な物語で問題が解決されないとき、更に霊とか魂の存在を新たな要素に組み入れても、それらもまた独立した個物として捉えるなら、今までの物語の中に登場人物が増えたようなもので、新しい別の物語とは言えません。

 デカルト以来続いてきた近代の要素還元論という物語に対しては、もっと別の物語が必要でしょう。

「地図」と「現場」を区別しつつ、それを混同することを「遊び」の構造とベイトソンはいいました。物語もまた遊びの構造をしています。

 
 私が今紹介できる「遊び」・別の物語の題名は
「汎在神論・万有内在神論」と
「精神の生態学グレゴリー・ベイトソンです。
あと「一遍上人踊念仏」と「日本の歴史における天下分け目の戦いは<関ヶ原>よりも<石山合戦>」


 ただ、ほとんどの魚たちが、水の中に暮らしていながら、水の存在を感じていないと思われるように、要素還元論的物語を要素還元物語(選びうる物語のうちのひとつ)と気づくには、それ以外の物語を知って生きて味わって初めて気が付くのだと思うようになりました。要素還元物語が息苦しくなくて、その中で生きていける人には、それ以外の物語は、見えないし、聞こえないのだろうなとも思います。

 
○物語についての物語  初めに不思議あり あそびせんとやうまれけむ

 先ほど、ある世界観・仮説、或る物語を信じ、その信心信仰に基づく行動の結果、課題が解決されるということは現代でも数多くあります、とのべました。

 ひとつに、それまで根拠としてきた物語をともかく放棄することで、その物語の束縛から離れ課題が解決されるということがあります。 (そのあとから物語・遊びの構造に気付きます。)

 例えば、心理学の分野に「偽解決行動」という概念があります。よかれと思って起こした解決行動が、かえって問題を増幅することがあり(偽解決)、そもそもこれは問題だと判断したもののみかた・前提(物語)から離れることで、課題が解決されることがあります。(かつて同性愛や不登校は治療対象でした。)

 金剛出版社刊の「解決が問題である」という本の案内にはこう書かれています。
「問題」(とされているもの)の「解決」よりも,その不適切な「解決努力」を放棄させることで問題を「解消」する。

 これは、森田療法やホ・オポノポノ、断酒会の主旨、シャマタ瞑想に通じるところがあります。


○知られざる物語 知られざる神 知られざる仏 弥陀の誓願不思議 
 
 「信じること」の姿として、信じられる根拠があるから信じるというのは、実は「信」ではないように思います。信じがたいけど信じる時、不信をも含めて信じる時に、それを信というのではないでしょうか。

 物語との関連から言えば、自分が今生きている前提・世界観・物語から見れば、信じられないが、まだ知られていない大きな物語に飛び込むこと(百尺竿頭進一歩)を「信」というのだと思います。信じられる根拠をもとに信じるとしたら、それは今までの世界観・物語の延長です。確信は妄信と紙一重です。

 
 名号札を配る一遍上人に対して、熊野権現は言いました。
「信・不信を選ばず、浄・不浄をきらわず、その札をくばるべし」
 
その一遍上人は歌やことばを残しました

「とにかくにまよふ心をしるべにて南無阿弥陀仏と申すばかりぞ」
「となふれば仏も我もなかりけり なむあみだぶつなむあみだぶつ」
「自力他力は初門の事なり。自他の位を打ち捨て、唯一念、仏になるを他力とはいふなり。」
「肉眼をもてみるところの仏は、真仏にあらず。」


 「私は考える、ゆえに私はある」とデカルトさんは言いましたが、無からいきなり考えたわけじゃないと思います。そもそも、からだというシステムの中の脳というモノがないと考えられないと思います。そのからだもいきなりこの世にあらわれて存在している訳でなく、人間<家族<社会<生物<環境<それ以上の何かという文脈のあるシステムの中に存在しています。また、考えというのは何かについての考えです。つまり、いきなり考えが生まれるのではなく、なんらかの関係があって考えが生まれます。仏陀が一切とは、色と受(想行識)の縁起・縁生だといっています。


 戦国時代の城をめぐっての攻防に、籠城という戦法がありました。城を攻める側が持参してきた兵糧以上の兵糧を城の中に蓄えておけば、やがて攻城側の兵糧が尽きてしまい攻撃を諦めます。しかし、豊臣秀吉は、籠城作戦に対して、補給専門の部隊も作り城を取り囲む部隊に兵糧を送り続けました。

 非常事態であれば、強固な壁の中に入って閉じこもることは、いのちを守ることになりますが、それはあくまで非常事態という期間だけのことです。城壁がないと、簡単に外敵に攻め込まれますが、外界と完全に遮断してしまうと、それは命取りになります。「精神」「自己」「私」についても同じことがいえるのではないでしょうか。常に外界と交流(交響)し、システム・関係を形成し、より大きなシステムの一部であってこそ「個人の精神」なのでしょう。城壁も皮膚も、閉じていて同時に開いています。


 「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯(ただ)一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。」(ヨハネによる福音書12:24 )

 イエスは彼(トマス)に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書 20:29)

 「我々は、自分のしていることの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」『あなたは、きょうわたしとともにパラダイスにいます。』(ルカ23:43)

 今あるいは、臨終のとき苦しまないことが救いなのではなく、念仏を申すこと自体が往生なのでしょう。

 自然心理学茶話会 1月26日 午後2時より 熊野健康接骨院にて 090−6987−6679