Selfless Love

Selfless Love

「意馬心猿」という表現があります。
私たちの意識は、荒れ狂う馬の様に、心は酔っぱらった猿の様に
一所に定まることなく、次々と移り変わるという意味で使われます。
 
そういった意識や心の変化に、私達は気付いているのかというと
気づいていなかったりします。
意識、心情、行動、信念、信条、縁起に気付かないまま、意馬心猿。
 
意識や行動の大波小波さざ波に気付き、その波に乗るのが瞑想です。
 
気づく手立ては色々ありますが、古今東西、自分のからだの変化に注目し、それをきっかけに気付くという方法が見られます。
 
一番よく注目するのが姿勢そのものや、呼吸です。
 
からだの変化状態に注目し(調身)、自分自身を知る(調心)ということを、改めて振り返ってみましょう。
 
「落ち込む」という言葉があります。 落ち込むとは、何がどこへ落ちていくのでしょう?その時からだはどうなっているでしょう? 
また、「落ち着く」という言葉もあります。 何がどこに落ち着いているのでしょう? 落ち着くという言葉は、「腹が据わる」「肝が据わる」という言葉と似ています。
 いまあなたの心身の重心はどの辺にありますか?
 
「胸が締め付けられる」という表現があります。同じ胸でありながら「胸がキュンとする」という表現もあります。いまあなたの胸はどんな感じですか?「胸を張っている」感じ?
「胸を開いている」感じ?「肩身の狭い感じ」

 「息」に注目してみましょう? 今どんな感じでしょうか? 「息が長い」という表現があり、「息が詰まる」という表現もあります。 別段何も感じないとしたら、ゆっくり唇の隙間から、無理なく息を吐いてみましょう。

 「落ち込む」ということを振り返ってみましょう。落ち込んでいる時、背中は丸くなり、頸が項垂れて、頭が落ち込んでいきます。胸が詰まります。呼吸が浅くなります。息苦しくなります。
 ふーとため息をつきましょう。次にはもっと深く息を吐き切ってみましょう。そうすると吸う息も深くなります。胸が広がります。背筋が伸びます。
 
 以後「落ち込んでいる」という感覚をもし感じたら、ふうーと息を吐き切ってみましょう。これは、からだに注目する瞑想のほんの一例です。


 あるべき、すべき高い目標や理想があって、現実と比べ、その差を感じ、思いどおりでないと感じた時、私たちは、落ち込んだりします。焦ったりします。腹を立てたりします。

 まるで深い井戸の底に落ち込んだようになります。壁を登ろうとしても、滑ります。
 そこで、じたばたすることをやめ、実際にからだに触れているものを感じようとすると、深い井戸が、自分の創りだした幻想であることに気づいたりします。
 相対性理論も、量子理論も、超ひも理論も、私たちの意識の構造なのでしょう。

 自分自身のことでも、自分の思うようにならないのに、私たちは、しばしば、身の回りの人々や社会を、自分が理想としているあるべき姿に変えようとします。思い通りに成らなくて、落ち込みます。
 確かに、お互いに影響を与えあうことはあるでしょう。しかし、思い通りに成ることなどあるのでしょうか。
 変えることができることは変える勇気を。変わらないことを受け入れる心の静けさ、寛容を。変えることと変えられないことを見分ける智慧を。とおもいますが、 
 
 「躓きつつ、挫けつつ、こころ回らし、信じ、隣人に身を捧げること」が私にできることなのかもしれません。
 
 いまあなたのからだはどんな感じですか?