お掃除日記抜粋

お掃除日記2
昨日掃いた道の上に、また今日も落ち葉が降り積もる。今日掃いた道には、明日また落ち葉が落ちることだろう。だからまた掃く。そういうことの繰り返し。そしてわが心も、毎日落ち葉が落ちて、毎日毎日掃く。

落ち葉が全然落ちなくて、降り積もっていない道のことを、「悟り」と思っている友人がいる。一歩間違えば、神経症になりそう。

逆に、どうせまた落ちてくるのだから、掃かなくていい、なんてことは、少なくとも人間にはない。昨日掃いたから、今日落ちてくる落ち葉がよくわかる。掃いていると、道の様子が見え来て、気のなり方にも変化が出てくる。これは、毎日掃いていて現れること。

だから、同じ道・こころ・人間・社会を見ても、人によって、道・こころ・人間・社会との関わりによって気になり方が違う。一つの絶対的な基準がある訳ではないのだろう。
枯葉の下で眠っていたフンコロガシやムカデには、掃除など迷惑な話だから。


掃除日記3
玉砂利を敷いた庭に落ち葉が落ちた時、竹箒が重宝します。
年に二回ほど、氏神様の掃除当番が回ってくるので、竹箒は欠かせません。
この竹箒にも、個性とその人生があります。新しく若い箒は、穂先が長すぎて、軽く掃いても、その弾力で落ち葉が遠くまで飛び散ったりします。だから、自分で針金を更に巻いて穂先を束ねます。そっと力を抜いて使います。使っているうちに穂先がすこしずつ短くなり、一番使いやすい脂の乗った時期があります。そのような箒でも、落ち葉が水分で地面にへばりついているときは、集めるのが難しくなります。そこでは、普段は使いづらい廃棄手前の短めの硬い箒が重宝します。掃除しながら、自分の人生を観じます。


お掃除日記4
台風に備えて、土嚢を積んだ濡れついでに、雨の中、玄関前をお掃除しました。


お掃除日記5
 晴れて地面が渇いていると、掃き集めた落ち葉が、風に飛んでいきます。
 お掃除というのは、ただ塵芥が取り除かれるのではなく、場に気が籠ります。
 「気を込める」のではなく、「気が籠る」
「気を込める」となると、力んでしまいます。


お掃除日記6
お掃除 という言葉から思い出されるお経があります。
周梨槃特(しゅりはんどく)=チューランパンタカ長老のお話です。
赤塚不二夫の「天才バカボン」の中のレレレのおじさんのモデルだそうです。

槃特(チューランパンタカ)は、物覚えが悪く、自分の名前すら覚えることが難しくて、いつも名札を首からつりさげていたと言われています。
あまりの愚鈍さに教団から一旦出されるのですが、釈尊から与えられたお掃除の仕事を通して後に気付きを得た人です。

確かにお掃除を続けていると、今まで自分自身で見えなかったことがら、関わっていない他の人々には見えないことがらが段々見えてきたりします。
 
 それだけでなく、毎日お掃除をしても、落ち葉は毎日落ちてくるのですが、毎日していると取り除くのに労力が少なくて済みます。少しだから後で、後でと、先延ばししていると、積もり積もってかえって大変です。 

また、原始仏典では「修業して悟る」という表現ではなく、「修業して清浄になる」という表現が使われています。
そして、「清浄」とは、真っ新、真っ白ということではなく、「空」であるとチベット仏教では言います。
つまり、落ち葉は落ちるもの、塵は積もるもの。(こころの)落ち葉をゴミ・症状・煩悩と見るのは、人間の分別です。

 劣等感の対語は何だろうか?
劣等感と言えばすぐ優越感という言葉が思い出される。
劣等感=私には能力がない、私がもし何かすると他の人はあらさがしをする、だから不安だ、苦しい、という感情たちだったりする。

そして優越感は、劣等感の裏返しで、優越感=私は優秀である、だから失敗は許されない、と考えたりします。
だから、劣等感と優越感は、対語と言っても並列の対語。どちらも陰性感情。
劣等感も優越感もないところの感情は何だろう。空。無分別かな。

実際的な行動でいえば、ゲッセマネの丘でのイエス・キリスト
「苦の盃を差し出さないでください。(陰性劣等感情があることを一旦は認める。)いえ、あなたの御心のままに。(認めたうえで、受け入れる。)」

ウィキペディアには、
仏弟子となったのは兄・摩訶槃特の勧めであるが、四ヶ月を経ても一偈をも記憶できず、兄もそれを見かねて精舎から追い出し還俗せしめようとした。釈迦仏はこれを知って、彼に一枚の布(あるいは一本の箒)を与え、東方に向かって、「塵や垢を除け」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされる。>
とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%88%A9%E6%A7%83%E7%89%B9

チューランパンタカ長老の詩
     わたしの進歩は遅かった。わたしは以前には軽蔑されていた。
     兄はわたしを追い出した。
     「さあ、お前は家へ帰れ!」といって。そこへ尊き師が来られて、
     わたしの頭を撫でて、わたしの手を執って、僧園のなかに連れて行かれた。
     慈しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。
     ―「この浄らかな物をひたすらに専念して気をつけていなさい」といって。
     わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみながら、
     最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。
     わたしは過去世の状態を知った。
     見通す眼(まなこ)(天眼(てんげん))は浄められた。
     三つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられた。
            (『チーラガータ』五五七ー五六二)

この話は、仏教界では有名な話のようです。
また、仏教徒でなくとも、この話を引用、解釈する人も多くいるようです。

赤塚不二夫の「天才バカボン」の中のレレレのおじさんのモデルだそうです。
また、いつも名札を下げていたということから、茗荷の名前にも関係しているようです。(後からのこじつけかもしれませんが)

出典 原始仏典・増一阿含経第11 仏弟子の告白・テーラガーター、

お掃除日記7
 今朝は、今日の2時から行う自然心理学の読書会のテーマ、「偶像再興」について考えながら掃き掃除をしました。

 明治時代、新宮市キリスト教会の呼び掛けた(政治的)集会に約500人の人が集まった、と以前聞きました。こういうことを言っては失礼でしょうが、もっと人口の増えた現在、教会の集会に500人集まるかどうか。

 明治の頃のキリスト教は、内村鑑三に代表されるように、愛国的な情熱を持った人々のキリスト教であったようです。それも、エリートの人々に広まった観があり、明治の俳句の広がりと共通する点があります。仏教においても、江戸時代の檀家制度により、仏教は本来の姿を失っていましたが、明治になって、それもインドを支配していたイギリスを通して、(学術的に)原始仏教が日本に伝わりました。
 学術的に、と言うのは、縁起とか相依性、諸法無我という仏教の世界観が、現代でも一般のものになっていないと思うからです。

 久しぶりに、山尾三省さんの「聖老人」も読みました。三省さんは、私の青春期、放浪期の頃、師と仰いだ人の一人です。仏教が、そんな状態だったから、当時の仏教という偶像に対して、ヒンズー、ブラフマンアートマンという別の偶像を建てようとしていたと今は思います。
もともと釈尊は、縁起、諸法無我という世界観で、ブラフマンアートマンの世界観を破壊しました。

 私のもう一人の師、山田塊也さんは、「インドへ行けば堕落したヒンズーに対して、仏教徒となり、日本へ帰れば、堕落した仏教に対してヒンズー教徒になる」と書いていたように思います。
さてこれから、私たちは一人一人、どのような偶像を再興するのでしょう。


お掃除日記8
「はじめにことばありき」というのは、聖書・ヨハネによる福音書のことばです。
ここでいう「ことば」とは、私たちが日常使っている言葉のことではなく、「神(のことば)」のことです。

 それはさておき、神のことばではなく、「人間の使う言葉がはじめをつくった」と、今朝は掃除をしながら思いました。
 はじめだけでなく、おわりをつくった。言葉が、生と死を分けた。正と邪、善と悪、自と他を分けた。そうして、世界がバラバラに分かれていった。そして苦しみも始まったと。
 私たちは言葉を知り、使い始めた以上、この言葉を捨てることはできません。しかし、私たちは、言葉以前のことばの世界も知っています。知っているけど忘れてしまっていたりします。言葉以前のことばの世界に入るのが黙想。

お掃除日記10  
 お掃除しながら「進化」という言葉が浮かんできました。
 「真理」という言葉と同じく、少年期には私を律し、導く言葉であったのに、60歳を前にして厄介な側の言葉になった言葉に「進歩」「進化」という言葉があります。
 新幹線の開通が、1964年。(真偽はともかく)アポロ11号の月面着陸は1969年です。

 朝、紀伊半島の南の端で朝食を食べ、その夕方には中国の上海で夕飯が食べられる時代です。遥か昔、日本に仏教の戒律を伝えた鑑真和上は、日本へ渡航するにあたって、何度も失敗し、6回目の渡航でやっと来日できました。11年がかりでした。そのことを思えば、科学技術の発達はすごいです。

 科学技術だけでなく、社会制度も、働きに応じた富の分配から、必要に応じた富の分配へ「進化」するのだと、少年期には信じていました。高校生の時、岩波新書の「社会主義入門」をテキストに、友達と勉強会を持ちました。同書には、20世紀に入り、あちこちの地域の国が、社会主義国に制度を変更しその人口は拡大しているとありました。目の前にある矛盾も、新しい社会へのステップになると信じていました。
 しかし、世の中を見渡せば、主義によらず、階級差、貧富の差があり、環境は汚染され、自然は破壊されている姿、政治目標の為に、今このときや弱者を犠牲にする姿が見えてきました。
 私は、「進化」という言葉が厄介なことばの側になって、希望を失ったかと言うと、実は困っていません。目標の為に今を犠牲にする生き方から離れることができるようになったと思っています。