やがて訪れる死からの 救済の証

明日も生きていたい、明後日も生きていたい
あるいは、一年後も、十年後も、二十年後も生きていたいと望むのは
よほど大きな大きな苦しみの中にいる人は別として
万人が偽りなく望むところだと思います
 
でも、大人なら、自分がいつか必ず老いて死ぬことを知っています。
 
そもそも、生という概念、生きていたいという思いは、
死という概念や、いつどこで突然死が訪れるかもしれないという思いがあってのことです。
 
そこで、老いの兆候や死の兆候を見出すと、それを避けるように努力します
 
学歴をつけようとすること、仕事をすること、趣味でさえも、
あるいは医学や栄養学、衛生学の研究も、
老いや死を恐れ、遠ざかろうとする人間の営みの一つといえます
 
しかし、どんなに努力を重ねても、やはり人間は老いて、死ぬのです
 
仏教では、諸行無常といい、一切皆苦といいます。
 
仏教では、苦しみのことを、「dukkha(ドゥッカ)」といいます。
 
元々の意味は、「思い通りにならないコト」という意味です。
 
どんなに死を避けようとしても、避けられません。
 
思い通りになりません。苦しいです。
 
ならば、それを受け入れるしかないでしょう。
 
そしてそれは、最期の瞬間のことを言っているのではなく
 
日々日常についてもいえると思います。メメントモリ
 
死をむやみに避けようとすることが、日々日常の生までも傷つけていることがあるからです
 
 
ストレス学説という、ハンス・セリエに始まった病理説があります。
 
< 生体はストレスにあうと、警告反応期に入り、アドレナリン分泌を行う。ついで副腎(ふくじん)皮質ホルモンの分泌が高まり抵抗期に入る。ストレスが続くと疲憊(ひはい)期になり、高血圧や胃潰瘍(かいよう)などの疾患になるとする汎適応症候群 >といわれていますが、
 
このセリエのストレス学説が独り歩きし、
 
あらゆる病気は、ストレスによる免疫低下が原因だという説が広がりました。
 
その一人歩きしたストレス説を信じる人は、
 
自身の外にストレスという原因があって、
 
それが私を苦しめている、
 
私に老いをもたらし、やがては死につながると捉えます。
 
時に、悪いのはストレスだといって、攻撃的になり
 
そのことが、自身や周りの人々を傷つけていることに気付かなかったりします。
 
老いや死を避けようとして、今ここの生を傷つけている一例です。
 
 
「地獄の沙汰も金次第」ということばがあります
 
お金はあるに越したことがありませんが
 
一体どれくらい蓄えておくことが、
 
エピクロスのいう「自然的で必然的な欲望」なのでしょう
 
一面的な捉え方ではありますが
 
蓄えている富の量は、不安の量と比例しているようにも思います
 
良寛の句を思い出します 「焚くほどは風が持てくる落ち葉かな」
 
お金はあるに越したことがない、と思っていますが
 
ある時期、(今もあるのかもしれませんが、)
 
「蓄積した富の量がやがてやってくる神の救済の証」と思った人々がいたようです
 
それで、「証」は得られたのでしょうか?
 
蓄積した富ではなく、
 
必ず理想郷が築かれるのだと述べる教えや理論を拠り所にした人々もいました。
 
「証」もまた、交互作用でありながら、
 
今ここの私の中において明かされるものと感じております
 
明かし続けるものと思っています
 
Sacitta pariyodapanam (2011-11-22 七仏通戒偈 善くあれ 参照)