思い通りにならないとき

思い通りにならないとき
 
「苦しみ」の定義や原因は色々考えられると思います。
    
私は、仏教、パーリ語でいうところの「dukkha(ドゥッカ)」を、苦しみの定義に採用しています。
    
つまり、「dukkha(ドゥッカ)」の原義である「思い通りにならないこと」です。
 
何かをきっかけに「苦しい、嫌だ、面白くない、腹が立つ」と感じたら
  
「あ、今自分は、思い通りにならないことを思い通りにしようとして苦しんでいる。」と捉えなおすのです。
   
私達は、私以外の人々や環境との交互作用の中で、自分が書いた予定表、文脈の中で生きています。
    
明日のことはわからない吾が身であっても、明日は生きているということを前提・予定として生きています。
   
また、幼いころから、一貫性を持つようにと教育されてきました。

自我とか人格、自己実現という言葉の定義も色々ありますが、一般的には、一貫性を持たせることを言うのでしょう。

目標を定めて、艱難辛苦を乗り越え、目標を達成することが素晴らしく、人生の意義だとも教えられてきました。
   
では、人生の目標とは何なのか?
 
やがて老いて、死んで、土に還る人生の目標は?

また、何らかの目標を持ったとして、その目標を達成するための手段があり、その手段を達成するための手段があり、手段と目標は、階層を形成しています。
    
階層のレベルとして、私はよくデパートを例にします。

地下一階で買い物をしようとするレベル、とデパートで買い物をしようというレベルと、買い物をして手に入れようというレベルと、同じ買い物という言葉を使っていても、レベルが違います。
  
しかし、いつしか、レベルを見失い、手段を目標と取り違えたりします。
 
     
エーリッヒ・フロムの翻訳本によれば、

< 人生の意味はひとつしかない。生きるという行為…それ自体なのです。>
   
< 愛とは、特定の人に対する関係ではない。愛の一つの「対象」に対してではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである >

と述べたそうです。
     
長かろうが、短かろうが、世間の目から見たら非業の死と映ろうが、多くの人がどう評価しようが、フロムのいうところの愛で、人生そのものを愛したら、それで十分だと思います。
    
こういったフロムの本に類する本は、「読了」とは本の最後のページまで読むことではなく、書かれたことを実践することでしょう。

思い通りにならないとき、一つの処方箋は、呼吸法、瞑想です。


○たかが数息観、されど数息観
 
先ず、自分の呼吸に気付き、気付き続けていることから始めます。
 
自分が今息を吸っているか、吐いているか、あるいは止めているか、吸うことから吐くことへ、吐くことから吸うことへ変わりつつあるか、観察を続けます。
     
吸っているときは「私は今息を吸っている。」と心の中で言葉にします。
深呼吸をしようと思わなくとも、観察するだけで息は深く、長くなります。
気づき続けるために、吸っている間は
「今私は息を吸っている、吸っている、吸っている、吸っている」と言葉にします。
    
自分が今息を吸っているのか吐いているのかに気付くには、何らかの手掛かりがあって、判断しています。普段はあまりにも当たり前すぎて、その手がかりに意識を向けたりしませんが、数息観の間は、その手がかりに意識を向けます。
     
鼻の穴や唇の間を通る空気の流れ、胸のふくらみ、肋骨の動き、腹部の膨張や収縮によって、私達は今息を吸っているか、吐いているかを判断します。
     
「今私は息を吸っている。吸っている。胸が膨らんだ。吸っている。お腹が膨らんだ。吸っている。更に胸が膨らんだ。肩が上がった。吸っている。横腹が膨らんだ。」と具体的なからだの部分を意識します。
      
息は自然に深くなりますし、姿勢もよくなっています。
最初のうち、吸う息は、鼻から、吐く息は口からにします。
吐く息は、シャボン玉を吹く要領で、そっと細く長くです。
      
胸の動きは、肋間筋という筋肉の収縮が、お腹のふくらみは、横隔膜という筋肉の収縮があって生まれるのですが、肋間筋や横隔膜の収縮感はなかなか意識できません。
    
私達は、現に起こっていることであっても、全てを意識できるわけではありません。
      
ここまでは、息は観察するだけで、深く長くしようとすることはしません。
それでも、自然に、相当深く長くなっていますが、吐き切ったとき、腹筋を使って息を吐き出します。吸う息に関しては努力しません。自然に任せます。
    
慣れてくれば、息を観察しつつ、考え事も、仕事も同時にできるようになります。
    
息を忘れて考え事をしてしまう場合は、考え事から離れるようにします。
「あ、今息を忘れて、考え事をした」と心の中で言葉にして、呼吸の観察に戻ります。
     
山の中や海辺でなくても、空気が美味しく感じられたら、数息観はできています。


思い通りにならないとき、思いのレベルを変えること
呼吸以外に、「ゲッセマネの祈り」を想うことも私には有効です。
(5月11日付の 十字架を読んでみてください。)