やがて訪れる死を受け入れるには

やがて必ず訪れる死を受け入れるには、「階層的思考が大切」と私は思っています。
 
例えば、「出来るだけ長生きしたい」というのは、生きる長さつまり「量」のことを言っていて、生きる内容、「質」のことは述べていません。
 
6月20日に、吉田松陰が、処刑される二日前に書いた『留魂録』の一部を紹介しました。
    
< 今この獄中にあって、死について発見したことがあるので、いつかの君(高杉晋作)の質問に答えておく。死は好むべきものではなく、憎むべきものでもない。死して不朽の見込みがあるとおもうなら、いつどこで死んでもよい。生きて大業をなす見込みがあればいつまでも生きよ。要するに生死を度外視してなすべきことをなす心構えが大切なのだ。>
  
< 私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。>
  
生きる長さ・量と生きた内容・質は、ちょうど二次元の横X軸と縦Y軸の関係だと思っています。
  
更に、Z軸があるように思います。量・質に対して、「認知軸」であるように思っています。
 
また、6月29日にはエピクロスのことを書きましたが、紀元前323年に、アレクサンドロス大王が亡くなり、政治的、精神的混乱期になったようです。そんな中で生まれたのが、古代ギリシャ哲学のエピクロス派とストア派です。哲学を学んだ人には常識でしょうが、このストア派が、今でいうストイックの語源だそうです。
 
そのストア派に属するエピクテトスは、「認知」のことを述べています。
 
 
エピクテトス
 
「世には我々の力の及ぶものと、及ばないものとがある。
我々の力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言でいえば、我々の意志の所産の一切である。我々の力の及ばないものは、我々の肉体、財産、名誉、官職など、我々の所為(せい)ではない一切のものである。我々の力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。が、我々の力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」
    
「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。死が恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。それゆえ、われわれは、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、決して他人を咎めてはならない。むしろ責むべきものは、われわれ自身、ことにそれに関するわれわれの考えである。自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。」
     
「君が知恵の正しい進歩を欲するならば、次のような誤った考えをまず取り除かねばならぬ、「自分の財産を不注意に取り扱うならば、やがて生計の道を失うだろう。自分の息子を罰しなければ彼は悪人になるであろう。」不安の心を抱いて贅沢三昧に暮らすよりも、恐れと憂いなしに死んだ方が勝っている。自分が不幸になるよりも、息子が悪人になる方が勝っている。」
    
「忘れてならないことは、君は人生において、饗宴の席におけるように振る舞わなければならぬことである。馳走の皿が君の前に回ってきたなら、手を差し伸べてその中から控えめに少しの分量をとれ。君の好むものが、しばらく回ってこなかったからといって、強いてそれを求めてはならぬ。むしろそれが君のところに回ってくるまで待っていよ。妻子や身分や富に関しても同様に振舞うが良い。そうすれば君は、いつかは神々の客人となるであろう。」
      
「あまりに長く肉体上のことに、例えば飲食やその他のことに、かかわっているのは、品性の卑しいしるしである。これらのことはすべて余計なものとして取り扱わねばならぬ。時間と精力とは、もっぱら精神のために用いなければならぬ。」
(以上、ヒルティ『幸福論』「エピクテトス」(草間平作訳)より)
    
「階層的思考」といっても、この言葉を聞いたり読むだけでは、その内実は伝わらないように思っています。
やはり、シーケンス制御学習として、止観瞑想、数息観を始めることが必須と思っています。