非在の現前化 文脈 物語

k1s2013-03-06

寒い夜に、橋のたもとに一人の女の人が佇んでいます。男の人がやってきます。
男「どうしたの、寒いのに。」
女「あなたがここを通るだろうと思って。」
男「馬鹿だな」
 
さて、この「馬鹿だな」という言葉の意味は、どういう意味でしょう。
 
たった数行の文章では、状況や文脈が測りかねます。この女の人と男の人の関係はどのような関係なのでしょう。仲のいい恋人同士でしょうか、それとも最近喧嘩した恋人同士でしょうか、あるいは元恋人なのでしょうか、女の人は健康なのでしょうか。情報が不確かのまま、あなたはあなたなりに想像して(あるいは思い込んで)「馬鹿だな」という言葉に意味を与えたと思います。
 
一応、広辞苑で馬鹿という言葉の意味を調べてみました。
梵語moha(慕何)、痴の意、またはmahallaka摩訶羅、無知の意。古くは僧侶の隠語。愚かなこと。無益なこと。とんでもないこと。役に立たないこと。度外れて。>
 
私達が使う言葉(単語)には、それぞれに違った意味が込められています。金槌という言葉の意味と鋸という言葉の意味が違い、ほぼ固定しているから、私達はそれらを言葉として使うことができます。
 
(少し脇道へそれますが、言葉には階層があります。リンゴやナシという言葉の階層と果物や野菜という言葉の階層は違うということです。さて、トマトは果物でしょうか、野菜でしょうか。どちらにせよ植物ではありましょうけど。)
 
先程の「馬鹿」の例に見るように、「言葉・単語」の意味は、ほぼ固定しているとはいえ、そのコトバが置かれている文脈で含まれる意味が違ってきたりします。また、その文脈も、更にもっと大きな物語の流れの影響を受けています。
 
これは、単に言葉・単語だけでなく、行動とか出来事についてもいえます。
 
レ・ミゼラブル」の中で、ジャンバルジャンは、パンを盗みました。盗むということは法に反しています。しかし、レ・ミゼラブルを読んでいるとき、私達はこの盗むという行為をどうとらえているでしょう。単に法律違反とは捉えないでしょう。
 
「1人殺せば悪党で、100万人殺せば英雄になる。数が殺人を神聖化するのだ」
とは、チャップリンの「殺人狂時代」の中の言葉です。
 
モンテーニュは『エッセィ』の中で、こう書いています。

 <「戦争で体験する死が、家の中で体験する死よりもはるかに恐ろしくないのはなぜだろうか。また、死は常に一つであるのに、百姓や卑しい境遇の人々の方にずっと多くの落ち着きが見られるのはなぜだろう」と考えてみた。私は、死そのものよりも、死の周りを取り巻いている人々の恐ろしげな顔つきや、ものものしい儀式が恐怖を生むのだと本当に思っている。そこにはいつものがらっと変わった暮らしぶりが見られる。母や妻や子供の泣声、びっくり仰天した人たちの訪問。あおざめた顔色と、泣きはらして付き添う召使い。陽のささない部屋、医者と僧侶に取り巻かれた病人の枕辺。つまりまわりにあるものは、全て恐怖と戦懐ばかりである。病人はすでに土中に埋められたも同然である。子供は友だちでさえ、仮面をつけたのを見れば怖がる。我々もそれと同じである。人からも、物からも、仮面を取り除かねばならぬ。仮面を取ってみれば、その下にはつい先日、身分の卑しい下男下女が、何の恐れもなく甘受したのと同じ死を見いだすだけである。>

 
ある言葉・単語、行為、出来事が、何らかの文脈の中にあるとして、その文脈によってその言葉・単語、行為、出来事の意味が違ってくるとして、その文脈をどうとらえるか、文脈の意味も一つに固定されてはおらず、そこにもまた、もっと大きなメタ文脈が作用します。
 
ある出来事において、そこには何らかの原因がある、ということは多くの人が認めるところでしょう。
 
しかし、何が原因であるか、その原因の原因は何かを捉える捉え方は一つではありません。
 
世の中の出来事には、因果律が働いていても、全体としての大きな流れは、ただ原因と結果、刺激と反応があるだけ、偶然の集まり、エントロピーが増大しているだけ、と捉える人もいれば、出来事には、何らかの意味がある、全体的な秩序がある、法則がある、意図がある、と捉える人もいます。
 
 例えば、地震が発生したことに対して、単にプレートが動いているからだ、という人もいれば、人為的に起こされたものだという人もいますし、大いなる意志が働いているという人もいます。
 
唯一絶対のの原因がある、それを私達は知ることができる、私達は知っている、唯一絶対の文脈がある、それを私達は知ることができる、私達は知っている、と思っている人が、一番厄介なように思います。
 
原因や文脈について、ある時、ある人々に多く支持される、好都合な原因と文脈の仮説があるのであって、それは真理とは言い切れない、ということを認めない人々は厄介です。
 
仮説や理論は言語で書かれています。ラカンがいうように、「現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかない」のでしょう。
 
同じことを空海さんは言います。
「法は、もとより言なけれども、言にあらざれば顕はれず」
 
「私達は、言語で語りえないものを、言語で語っているのだ」ということを、家庭内あるいは義務教育内で、丁寧に教育していきたいものです。
 
また、逆に言えば、例えば俳句は五七五の十七文字ですが、このたった十七文字で時空の制限を超えた広がりを、私達は修練することで齎すことができます。
 
いずれにせよ、言語・記号は、非在のものごとを、実在であるかのごとく現前させる作用があります。
さらに、実在のものまでも動かしたりする作用もあります。
 
「金・ゴールド」ですら、時間とともにすり減り、劣化するのに、銀行で貸し借りするお金に利子が増殖するのは、記号システムによる非在の現前化です。