苦の生滅と言語学

苦の生滅と言語学

<苦しみの生滅>
私は、苦しみたくない。
つまり、腹を立てたり、うらんだり、いらいらしたり、悔やんだり、不安に落ち込んだり、意欲を失ったりしたくない。
 
同じように、あなたにも苦しんで欲しくない。
 
あなたが苦しんでいる側で、それを知らん顔して居れるとは思わないから。
あなたにも苦しんで欲しくない。
 
しかし、私はときに苦しみ、世の中には、苦しんでいる人があふれている。
 
それで、私は、これまで、苦しみはどのようにして生まれ、
どのようにして解決されるのだろうか、と観察や思索を続けてきた。
 
智慧
 そんな中で、私は色々な智慧に出会った。
ひとつは、四諦八正道、縁起、六波羅蜜を述べる仏教
ひとつは、私達人間の行動や心理的過程についての仕組みや構造についての理論、解決方法を述べる臨床心理学
太極拳や、リンパマッサージ、瞑想、野口体操、フェルデンクライスメソッドなどのボディワーク等だ。
 
それらに出会ったことによって、私は随分荷が軽くなった。
 
人生の重荷という言葉があるけれど、多くの荷物は、必要も無いのに
必要と思い込んで、自らが背負っているように思う。
海へ遊びに行くのに、登山靴を鞄に詰めるがごとく。
例えそれが、生老病死の四苦のような、実存的な苦しみであっても
自分が背負い込んでいるように思う
 
<荷を軽くする智慧のひとつとして言語学
私は、人生の荷を軽くするひとつの智慧(の基礎)として「言語学」を紹介したい
 
というのは、私達が味わう苦しみ達と言語・言葉は深く結びついているから。
 
例えば、私達は、考えたり、話し合ったりするときに、言葉を使用する。
腹を立てたり、いらいらしたり、悔やんだりしているときも、言葉を使っている。
 
その言葉の使い方と、私達の苦しみは、深く結びついている。
そのことについて、一緒に観察してみようではないか。

<私達の行動と苦しみと言語>
私達の行動と言語が結びついていることを、例を挙げて考えてみよう
 
寒い朝、布団からなかなか抜け出せないでいる
きっと、心の中では、起きださない理由、布団の中でぐずぐずしている理由をあれこれ述べているだろう
 
「まだ、大丈夫。」「寒い」「昨日眠るのが遅かったから、少しでも眠って疲労を回復させよう」などと。
そこに、このような文章が現れたとしよう
「眠いから寝るのではなく、寝ているから眠いのだ」
そのことによって、行動の選択が違ってくる。
 
例えば、腹を立てることについて
「腹が立つのは、自然な感情であって、言葉とは関係ない」と言うかもしれない
そういう言い訳自体が、言葉でできている。
腹を立てている最中、心の中で、色んな言い訳をしゃべっていることだろう。
 
「相手を傷つけることなく、亦自分も傷つけない」という文章を
思い出すことができたなら
同じ意見を主張するにしても、主張の仕方が違ってくるでしょう

<思い通りにならないことは苦しい>
あるとき、ゴータマ仏陀は尋ねた
「この世の一切は、無常であるか無常でないか?」
「無常であるもの、無常であることは、苦か苦でないか?」
 
この世の一切が無常であるのか、その無常の中に永遠不滅のものがあるのか
人間が知性を備えて以来、論争してきたことだろう
今もその論争は続いている
 
どちらが正しいとは私は言わない
一切が無常であるという捉え方を選択をするだけのこと
一切が無常であると思うのと、無常の奥に永遠不滅のものがあると捉えるのでは
その苦しみの解決の方法が違ってくるだけのこと
 
無常の奥に永遠不滅のものがあると思うのは、言葉の働きによるし
同時に、現代言語学は、一切が無常であるということを導き出してくれる

<生死と苦しみと言語(の分節)>
誰しも、死にたくは無いだろう、生きたいであろう
誰しも、老いたくは無いであろう、若々しくありたいだろう
誰しも、不利益は嫌だろう、利益を得たいだろう
誰しも、負けたくは無いだろう、勝利を収めたいであろう
 
私達は、死を避けるため、不利益や敗北を避けるため、
あれこれ算段し、目標を定め、予定を立て、努力する
 
がしかし、自分の思い通りにならないとき、苦しむ
からして、世の中には、如何にして、利益を得て、不利益を避けるか
自分の思い通りに世界を動かすかについての、知識と教師にあふれる
 
宗教家は言う、不利益も受け入れなさい、そうすれば利益を得るでしょう
敗北を受け入れなさい、そうすれば勝利するでしょう
瞑想者は、利益も不利益も手放すことを勧める

<論理階型>
「利益を得て、不利益を避けること」
「不利益も受け入れること」
「利益も不利益も手放すこと」
これらは、別々の内容を言っているように見える
しかし、「それらが別々でない人生が可能である」
ということを、言語学を理解することによって、見えてくる
 
それは、論理階型を理解することによってだ
 
海山権兵衛さんは、果物屋を経営している
店頭には、蜜柑、リンゴ、なし、バナナ、パイナップルなどが並んでいる
リンゴのコーナーへ行けば、紅玉、フジ、王林が籠に入っていた
 
果物、リンゴ、紅玉の関係が、簡単に言ってしまえば、論理階型の例だ
 
あらゆるところで、論理階型を発見することができる
 
例えば、文章を書いて、それを理解するという過程を見れば
単語の意味が先ず判っていなくてはならない
単語と単語の並び方にルールがあり、そのルールを共有する必要がある
「りんご 彼女 は 買った に 私 を」では、一つ一つの単語は理解できても
文章の意味が判らないだろう
 
「私は彼女にリンゴを買った」なら、理解できるだろう
 
しかし、私がリンゴを買ったのは、
禁断の果実を贈るためなのか、ゴマすりの果実を贈るためなのか、それ以外なのかは
前後の文脈に依存する
 
文脈、文章、単語も、論理階型になっている
 
普通、クラスとメンバーという単語を使って、それらの関係を表す
クラスの構成要素を、メンバーという
そのクラスをメンバーとして、メタクラスがある
 
紅玉は、リンゴというクラスのメンバーであり、そのリンゴをメンバーとして、果物というクラスがある
紅玉から見れば、果物のことをメタクラスという

では、 
生と死は、どういうクラスのメンバーだろうか?
 
私は
生と死のクラスを見出すのが、瞑想であり
その基礎となっているのが、言語学だと思っている
 
<生と死は、名詞ではなく、形容詞?>
今この文章を読んでいるあなたは、生きていると思います。
死んでいたなら、読めないでしょう
では、あなたの髪の先から、爪の先まで、丸ごと生きているのでしょうか?
 
例えば皮膚、皮膚は約4週間で常に新しいものに入れ替わっています。
基底細胞から、新しい細胞が分裂し、細胞の中の核が無くなって、角質になります。
その角質は、垢となって、剥がれ落ちます。
 
爪や髪は生きているとは言いがたいし、血液の中には、仕事をし終えた死んだ白血球があります。
 
人間の肌だけでなく、例えば広葉樹にわくらばがあります。
葉っぱの表面の傷から、ウイルスや雑菌が侵入したとき、酸などを使って対応するのですが、
対応しきれなくなったとき、全体の命を守る為、雑菌が進入した細胞の周りの細胞が自ら死んでしまいます。
アポトーシスといいます
生と死は別のものではないのです。
 
私達のからだのメンバーである細胞は、短いサイクルで生死を繰り返します。
それでいて、クラスであるからだそのものは生きています。
そのからだもやがては死んでしまいます。
人間社会のメンバーである人間は、生死を繰り返しています。
しかしクラスである人間社会そのものは生きています。
人間社会、一個人の人間、人間の細胞はそれぞれ、論理階型になっています。
 
そして、生とか死は、名詞ではなく、状態を表す形容詞であるといってもいいでしょう
 
ただ、生とか死という言葉を使っているうちに、私達人間が、それを実体視してしまうのでしょう。
 
死ぬことの不安、恐怖を乗り越える為に、
永遠不滅の魂や心を実体視しするのは有効な方法かもしれません
 
しかし、その同じ方法やり方で、
「心の傷」や「性格」「罪」を実体視することで、苦しみが生じたりするのです。
本来形容詞であった「死」も実体化します
 
変化し続けるものの中に、変化しないものを想定することは、両刃の剣なのです。

<ピュセイとテセイ>
一般的な感覚からすれば
ものの名前は、「本質」に付けられたラベルだと思いがちです
 
逆に言えば、
「心」という言葉があるのだから、「心」という本質、実体がある
「死」という言葉があるのだから「死」という本質がある。
「正義」という言葉があるのだから「正義」という本質がある
「苦」という言葉があるのだから、「苦」という本質、実体がある
と思いがちです。
あるいは「耳鳴り」という言葉があるのだから「耳鳴り」という本質、実体がある
「癌」という言葉があるのだから、実体として「癌」があるように思ってしまう
が、癌細胞という細胞が実体として存在する訳ではない
 
パーリ語的にいうならば、細胞が、癌性を帯びることを、癌といっている訳だ。
 
じゃ、私とは何か、
<それ>に、私性、○口○一性を帯びているものを、私とか○口○一と呼んでいるだけのこと。
じゃ、私性とか、○口○一性とは何かといえば、所縁によって現象しているあるクラスの傾向性のこと
(ややこしい話になるので、今はこれだけにしておこう)
 
続く