人間の一生は、長編小説に例えられたりします。小説を書くのは、もちろんあなた自身です。かけがえのない人生を素晴らしい作品に仕上げるには、何が大切でしょうか。
人生の物語は色々あれど、作品の内容の多くを占めるのは人間関係でしょう。人間関係で重要なのは、言葉の使い方です。学校で習った「国語」は、振り返ってみると、言葉の適切な使い方・「智慧」を学ぶことより、試験のための「知識」の授業になりがちでした。
学校を卒業し、家庭生活や経済生活を営む大人達こそ、生涯にわたって本来の国語を学び、研鑽していくことが大切と思います。
NPO熊野みんなの家では、生涯学習シリーズとして、認知心理学やコミュニティ心理学に基づいた「国語・母語」の授業を始めます。一緒に学びあい、より素晴らしく充実した人生物語を作り出していきましょう。御気軽に御参加してください。
授業の内容の一部を紹介します。
習わなくとも話せるのに、なぜそもそも「国語・母語」の授業?
国語・母語ってなあに、言語と人生のかかわりについて
単語について
○ あなたの思いは、きちんと相手(子供、連れ合い、同僚)に伝わっていますか?
伝わらないとき、相手のせいにしていませんか?
あなたの「好き」「あほ」と、相手の「好き」「あほ」は同じことを言っていますか?
私達は一人一人が「私だけの辞書」をこころの中に持っています。
あなたの心の中の辞書を今一度開いてみましょう。
文章について
○ 私達は、独りで考え事をする時も「国語・文章」を使っています。
その時、あなたの文章の書き方には癖があることを自覚していますか?
○ 「タイトル・題名をつけましょう。」
あなたの人生物語にタイトルをつけるとしたら、なににしますか?
タイトルをつけることで、方向や全体像が見えてきます。
○ 「怒りをぶつける」と、関係が壊れます。「怒りを抑える」とストレスがたまります。
あなたの感じている怒りを、あなたの言葉で「語り」ましょう。アサーション
文脈について
○ 非言語という言語
よく、<話をする時は相手の眼を見て>といいますが、「アイコンタクト」と「ガンをつけるの」とどこが違いますか?
< 初めに なぜそもそも国語・母語の授業なのでしょうか? >
「大事なことを考えようとするのだけど、考えがうまくまとまらない」「自分の言ったことについて、相手が全然違う受け取り方をした」「相手の考え方、感じ方が全然わからない」
日常の中ではよく味わうことですが、これらは言葉の使い方と深い関わりがあります。
私たちが日常使っている言葉と、人生の様々な課題との関わりを明らかにし、適切な使い方を学びあうのが、私達NPO熊野みんなの家生涯学習シリーズ「国語・母語」の授業です。
< 成績評価・学力・得意不得意について >
学校に通っていた頃、あなたは国語が得意科目でしたか?それとも苦手でしたか?
なぜそう思うのですか? どうやって判断したのですか? 誰かが決めたのですか?
私達は学校で行ったテストの結果を見て、私はこの科目が得意とか不得意とかを判断します。
テストはふつう、隣の人と相談して受けたりしません。そうするとカンニングといわれます。
こういう一人一人別々にして試験をするやり方で判断できるのは、「現下の能力」です。「未来に準備されている能力」は測れていません。あなたは、あなたの潜在力に気づかないまま、自分の能力を判断してきたのかもしれません。
過去のことを以て、国語が不得意であったかどうかは判断できません。
参考
ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」
< あなたの得意な感覚はなに? >
私達は、五感や第六感、感覚器官を通して色々な情報を手に入れ、物事を認識したり、考え事をしたりします。その時、感覚器官の働きに個人差があります。
絵で説明されるとよく理解できる人もいれば、絵による説明だとかえって分かり辛くなる人がいます。
最初に全体を見渡したほうが仕事がスムーズにいく人もいれば、全体を見るとかえって混乱し、一つ一つ端から順番にこなしていくほうがスムーズにいく人もいます。
あなたはこれまで、自分自身や子供さんの「認知特性」について考えたことがありますか?
< 疎外ということばから 単語・文・文脈・推論 意味・文法・語用 >
あなたは、あなたの考え事や会話の中で「疎外」という単語を使ったことがありますか?あなたが「疎外」という言葉を使うとき、その意味はどのようなものでしょう?
最近の簡単な国語辞典では、「よそよそしくすること」「仲間はずれにすること」と解説されていたりします。広辞苑には哲学から派生した言葉として「ヘーゲルでは、自己を否定して、自己にとってよそよそしい他者になること。マルクスはこれを継承して、人間が自己の作り出したもの(生産物・制度など)によって支配される状況、さらに人間が生活のための仕事に充足を見出せず、人間関係が主として利害打算の関係と化し、人間性を喪失しつつある状況を表す語として用いた。」とあります。
私は、「自分自身や他の人々を、自分の目的達成のための手段とのみしてしまうこと」という意味で「疎外」という言葉を使います。
私達は、幼いころから「より高い目標を持つこと、そしてその目標に向かって、計画や予定を立て、努力することが大切である」と教えられてきました。
その姿勢、生き方はともすれば、今ここを、目標目的のための手段とのみしてしまいがちです。常に目標と現在を比較し、現在を否定し、自己を追い立て、ちっとも「今ここ」を味わって生きていなかったりします。
かといって、行き当たりばったりでは、刹那主義や周りの状況や歴史性が見えない自己中心的な生き方、環境や時代に翻弄され、右往左往する生き方になりがちです。
疎外から抜け出るには、「私は私や他の人を疎外していないかと自身に問うこと」「今ここを過程として捉えると同時に、永遠でもあると捉える視点」、「予定を立てるけれど、予定通りにならないときには、その予定に固執しない生き方」「死を恐れずに、死を避け、やがて受け入れる生き方」が必要だと思います。
疎外という言葉は、私自身の生き方を点検する言葉になっています。
あなたにとって、あなたを律する言葉はどのような言葉でしょう?
< ことばのはたらき 単語から考える >
文は、単語から成り立っています。この単語には、どのような働きや制限があるでしょうか?
誰もがわかりきっているようなことを、もう一度考えてみましょう。
「あなたの右腕はどこにありますか?」(where is your right arm?)と質問されたなら、あなたは何と答えますか? 分かりきったことをなぜ効くのかと思いつつ、左手で、これが私の右腕です、ここに私の右腕があります、と示すでしょう。あるいは右腕を相手に差し出すことでしょう。
例えばこのような会話が成り立つでしょう。目の不自由な人がいて、あなたはその人を誘導するとき、「私の右腕につかまってください」と伝えます。相手は「あなたの右腕はどこにありますか」と尋ねます。そこであなたはあなたの右腕を相手に差し出します。
そこでもう一度あなたにお尋ねします。「あなたの右腕というものが存在しますか?」
私達が持ちやすい素朴な世界観は、まず世界があり、その中に私が生まれてきます。世界は、色んなものであふれています。そのもの達には、それぞれ名前がついているという見方です。
世界の側には、はっきりとした境界があって、それぞれ独立した色々な部分が集まって、世界全体が出来上がっているという世界観です。
あなたは年間に何度ほど「虹」を見ますか? 日本人の場合、平均5回と聞いたことがあります。虹は、想像の産物ではなく、実際に見ることができます。ところで、虹は、「モノ」として存在していますか?
虹は見えているけど、手で触れることができない、だからモノではなく、現象であるというかもしれません。
ではお尋ねします。あなたはセーターを着ています。セーターは、目に見えることもできるし、手で触れることもできます。では、セーターはモノとして存在していますか?
当然、虹は現象であり、セーターははっきりモノとして存在していると答えるかもしれません。
では、そのセーターを解いてしまって、毛糸玉にします。セーターはモノだったでしょうか?
私が、右腕や虹やセーターという単語を通して何を言おうとしているかわかりますか?
何か「単語・名前」があると、私達はあたかもそこにモノがあるかのように思ってしまう、ということをいっています。
名づけられたものが存在しないとか、夢幻であるといっている訳ではありません。冬にセーターを着れば、暖かいし、右腕は目の不自由な人の支えになっています。
あなたにはあなたのこの世での名前があるでしょう。「死」というのも何かに名づけられた単語・名前です。しかし、あなたも死も、モノとして存在している訳ではない、といいたいのです。
心の傷、非行少年、お金、利子、税金、夫婦、家族など、モノとして受け取っていないか、今一度点検してみましょう。
名づけられたものは、永遠不滅の実体とは言えないけど、確かに影響作用があることを、仏教では「色即是空 空即是色」と言ってきました。
何か目の前に課題があるとき、私達ははっきりと確定し目に見える答えを欲しがりますが、「確定した答えがある訳ではない」というのが答えかもしれません。