俳句による人生の充実計画その2 言葉を豊かにしましょう 

私達が日常何気なく使っている言葉・単語には、それぞれ対応した意味がありますが、その意味の内容の範囲は、人によって、時代によって違いがあったりします。例えば、かつて「おかし」は奥ゆかしい、「あはれ」は、あっぱれ、「すごい」は、物寂しい、という意味でした。現在「やばい」は、どういう意味をもっているでしょう。
   
子供の頃、言葉の一つ一つには、決まりきった意味や物が対応していて、辞書に書いてあることがその正しく決まりきった意味や物だと思っていました。
 
「言葉にはそれに対応した意味や物がある」ということは、「世界は、はっきりとした境界で区切られている」という意味でもあります。
 
犬と猫の間には、はっきりとした境界があり、ましてや犬とじゃが芋の間には、もっとはっきりした境界があると。
 
確かに、境界をはっきりさせることで、人間は世界への働きかけが微妙かつ繊細になったと思います。そして生きるのがより有利になったと思います。
 
例えば、芹と毒芹を見分けることは大切ですし、肉と骨を区別することは大切です。
 
問題なのは、そういった境界が、人間の存在や認識とは関係なく、世界の側に最初からある、と思ってしまうことです。
 
世界の側に最初からあると思ってしまうと、例えばそれは差別や苦しみに結びつきます。
 
男と女の境界、貴人と非人の境界、精神と物質の境界、生と死の境界、善と悪の境界
 
世界は均一であり、区別や差異、違いがないといっているのではありません。
境界は、人間の側が仮に引いたものである、と言っています。
 
境界は恣意的であったり、階層的であったり、異次元的であったりします。
 
愛という言葉には、どこかに愛でないモノゴトとの境界があることでしょう。
家族という言葉には、どこかに家族でないモノゴトとの境界があることでしょう。
 
ある人は体罰を愛の側に入れ、ある人は愛でない側に入れます。
ある人は、遠慮なく言いたいことを言うのが家族だと思い、ある人は親しき仲にも礼儀があると思います。
ある人は、人間の行動というのは、ある刺激に対して決まりきった反応という無条件反射があって、生きる過程の中で、条件反射やオペラント学習をしていくのだと考え、ある人は、人間には生まれながらにして大いなる意図があると考えます。
ある人は、人間の苦しみはすべて、性リピドーの不充足から生まれると捉え、それ以外の考えは間違いとし、ある人は、成長に伴い生じると捉えます。
ある人は、すべての行動行為において、目的と手段を分けようとします。
 
目的と手段を分けるところから、疎外が生まれたりします。
 
エクスタシーや悟りを目的にすると、疎外に陥りやすくなったりします。
 
頑張らなくていいよ。頑張ってもいいよ。



 
 社会学で使われる概念に、「シンボリック交互作用論」があります。
 
< 人間の行動を観れば、私達は世界における対象を、なんらかのかたちで翻訳・解釈し、その解釈・「意味」に基づいて何らかの行為をとる。物事を解釈する際に必要となる「意味」は、人々の社会的な相互作用によって生みだされる。「意味」は、様々な事柄に対処する際、扱われ、修正される。>
 と説明します。

例えば、ある日中村屋の月餅を買ってきて食べたとします。それは、単にお腹がすいたという欲望や条件反射だけで食べているのではなく、その人独自の何らかの意味に基づいて選んで食べています。
 
 おかしという言葉の意味は、その当時の人々の社会的な相互作用で創られました。そして、修正が行われ、今ではおかしはおかしいという意味で使われます。
また、結婚については、恋愛という言葉が出来たのは、明治になってからです。親や親せきが決めた人と結婚するのが当たり前、という時代もありました。
 
人と人が愛し合う時、言語を媒介とすることが多いです。また同時に、けんかになる時も言語がきっかけとなることが多いです。ある人にとって何気ない言葉であっても、別の人には、深い意味や歴史が込められた言葉であったりします。ごくありきたりの言葉と決めつけず、丁寧に受け取って、お互いの理解を深めあいましょう。 そこで、まず俳句で味わってみましょう。

 道端に咲く雑草も俳人の眼から見れば違う姿を現します。道端の草にも、歴史があります。
 
どこまでも雨の背高泡立草 小西昭夫    濡れ衣を晴らすは小虫泡立ち草
 
高度成長期の頃、セイダカアワダチソウは嫌われ者の草でした。一つには、花粉症の原因といわれました。一つには、あまりにも勢力が強すぎて、在来種の草を滅ぼしてしまうだろうと思われたからです。
花粉症の原因というのは濡れ衣で、セイダカアワダチソウは風媒花ではなく、元々ミツバチの花粉用の花であるように虫媒花なので、花粉は遠くに飛びません。観察しているとコガネムシがよくやってきます。
セイダカアワダチソウは、荒れ地が好きです。荒れ地を緑化します。緑化した後、他の種類の草が生えるようになります。こういう働きをする草をフロンティアというそうです。在来種を滅ぼすことなく今は野草の一つとして、風景の中に溶け込んでいます。
 
セイダカアワダチソウ以前にも、実は外国からやってきて、最初は在来種によくないと思われつつ、今では在来種のように溶け込んでいる草がいくつもあります。シロツメクサがそうです。ヒメムカシヨモギもそうです。ヒメムカシヨモギは、鉄道草とか明治草、一新草という別名があります。明治時代に、鉄道の広がりとともに日本に広がったからといわれています。今では、日本中いたるところで、路傍の草として見られます。
ヒメムカシヨモギ、鉄道草も季語となっています。
  
ヒメムカシヨモギの影が子の墓に 飯田龍太
  
捨てられた土地で海観るカンナかな