瞑想 四念処 の勧め

生きる智慧、 死ぬる智慧、生死を越え(て生き)る智慧



私達一人一人は、私達自身の実際の人生を使って、一冊の小説を書いているといえます。
小説職業家が書く、いわゆる世間一般の小説と違うところは、生涯一冊しか書けないということ
脇役の人々は、作家の思い通りには動かないということ
「生まれ、成長し、人と出会い、老いて必ず死ぬ」という基本的なあらすじが決まっていること
一番深く味わう読者は、私自身であるということ
さて、これまでどのような小説を書いてきましたか? これからどのような展開になりますか?


小説には、「文脈」があります。
文脈は「文章」と文章が積み重なって生まれます。
文章は、あるルールに従って組み合わされた「単語」でできています。 
音の差異があって、単語が生まれます。
単語が組み合わされて、文章になります。
それでいて、単語の意味は、文章に依存します。
同じ単語でも、文章が違えば、違う意味になったりします。
同じく、文章が集まって文脈を産みますが、文章の意味は、文脈に依存します。
 
たった今ここの思い、小さな出来事が、人生の大きな流れを作り
これまでの全人生、すべての出来事の「流れ」の中から
たった今ここの思いや、小さな出来事が生まれてきます。



<生きる智慧
私達が書く小説には、基本的に共通な「流れ」があります。
それは、「生きようとする流れ」です。
 
私達は生物の一員、動物の一員でもあるので、
基本的に、自分が生きるのに都合がよいものを求めます、不都合なものを避けようとします。
誰しも、快楽はうれしいし、不快なことは避けたいものです。
自分の予定通りに事を運びたいものです。
試合やゲームには勝ちたいです。負けたくありません。
(何を以って正しいと言えるかはさておき)正しくありたいし、間違っているといわれたくありません。

 
私達が、学校へ行ったり、誰かから学んだりして身につける技術や智慧の多くは
基本的には、自分の利益を増やす為のものです。


<死ぬる智慧
生物界をよく観察してみると、生きようとする流れだけで成り立っているのではありません。
生きようとする流れと同時に、死ぬる流れがあるから、全体としての生きる流れが成り立っています。
   
私達のからだは、約60兆個の細胞で成り立っていますが、毎日約4千億個(150分の1)の細胞が死んでいます。
葉っぱに、ウイルスが進入すると、侵入された周りの細胞が自ら死ぬことがあります。(アポトーシス
 
私達は、人生経験を積む中で、生きようとする流れだけでは、上手く生きていけないことを学びます
その中で、
不完全さを受け入れることも学びます。
損して得とることを学びます。負けるが勝ちなどということもあります。
受容や沈黙を学びます。
「今ここに生きる」とか「一期一会」といったりします。
つまり、生きる智慧と同時に、「死ぬる智慧」も身につけていきます。

 



<生死を越え(て生き)る智慧
生きる智慧だけでなく、不完全さを受け入れる、不利益を受け入れる、受容の智慧、死ぬる智慧、寛容を身につければ
味わい深い、美しい人生小説を書くことができるでしょうか?
(カウンセラーや宗教家の多くが、受容と寛容と相対主義を説きます)
 
受容だけでは、そうも言い切れないように思います。
生も死も越える、手放す(瞑想者の)智慧が必要に思うのです。
 
心身一如ではなく、そもそも心身に分けない智慧
無無明と無無明尽に(分けるけど)分けない智慧が必要に思うのです
かといって神秘主義を勧めているわけではありません。
 
あえて言葉にするならば、全体論、縁生論、差異とパターンの論理階型、公理系を勧めているのです
 

さて、何から具体的に始めましょうか?
 
自分自身の人生、周りの人々の人生の充実を願って
呼吸に気付き、呼吸の差異とパターンを観つめるをお勧めします