生きる智慧、死ぬる智慧、生死を越え(て生き)る智慧 智慧の論理階

苦しみの生滅を考えたとき
「言葉」が深く関わっている 
 
言葉によって、私と世界が分断され、
様々な苦しみを生む原因になった
 
しかし、その言葉による苦しみの発生を、解決へ導くのも
言葉によるものだと思う
 
 
少年期、青年期の頃、私はこの世は「競争社会」だと思っていた
 
どうやら、わが息子も、現在22歳だが
「この世は、競争社会だ」と(言葉で)捉えているようだ
 
私は、23,4歳の頃、東南アジアへ放浪旅に出かけ
タイで赤痢にかかって死に掛け、
「生かされて生きている」と感じたのだが
それほどの経験をしないと気付くのが難しいことがある
 
昨年の今頃は、ヘモグロビン値が正常の三分の一まで下がってしまい
やはり死に掛けていた
 
そんな中で、医療センターのエスカレーターを降りていて
はたと感じ気付いたことがある
 
生きようとする力が強く、努力も強力なつれあいに
「目標を達成することだけでなく、過程も味わっていますか?」と尋ねると
「過程も味わっているわよ」という返事
しかし、彼女を見ていると
その過程も、<目標達成の為の過程>
同じ「過程を味わう」といっても
私の場合は、目標のほうこそが、<過程を味わう為の仮想的目標>
 
目標と過程の関係がひっくり返っている
長年一緒に暮らしているけれど
上手く伝わらない
 
どんなに正しい目標であろうと
それが仮想的なものであるという自覚が無い限り
苦しみの原因にもなる(一切皆苦) 
しかし、これも階型から言えば、死ぬることの智慧に属する
 
「私」に囚われているから