やがて訪れる死を遠ざけつつ、死を受け入れる

青年期には、「幸福論」という題名のついた本を色々読みましたが、
青年期を過ぎてからは、むしろ読まなくなりました。
 
エピクテトスのことを知り、もっと知りたくて
ヒルティ著、草間平作訳「幸福論」岩波文庫 を、アマゾンで購入しました。
 
62頁に、こうあります
 
< きみを虐待するものは、きみをののしったり打ったりする人ではなく、これを屈辱と考えるきみの観念である。だれかがきみを怒らせたなら、それはただきみ自身の観念がきみを刺激したのである。それゆえ何よりもまず、事の起った瞬間に、その観念のために心を奪い去られぬようつとめるがよい。後になって、熟考する余裕を生じたなら、きみは必ず自分を制することができるであろう。>
 
もし、この文章を青年期に読んだとしたなら、読むだけで終わったように思います。
 
独り本を目の前にして読んだときは、ああなるほどと思い
でも実際の場面では、怒ってしまう、そういったことを繰り返してきました。
 
瞑想を実践し、「色受想行識」と自分の認知と行動のつながりを観察し
そこでやっと、「屈辱と考える自身の観念」が見えてきます。
    
    
2011−8−31にはこのように書きました。

 仏教の世界では、人間がものごとを認識する過程を、「色受想行識」といったりしますが、特に対象に名称をくっつけることを、「分別」とか「仮説(けせつ)」といいます。
 
< 対象は心によってさまざまな存在として認識されるけど、それは対象自体の力でそのように成立しているのではなく、分別による名称の付与を通じて仮に設定されたものなのだ。このことを、仏教用語で「仮説(けせつ)」という。(チベットの般若心経 春秋社62頁105頁 >
 
<「私の敵である彼」という存在が成立しているのは、私の心がそのような名前を書いた名札を貼ったことに依存している。事実、彼が敵であることは、万人の共通認識ではないはずだ。彼自身がいかなる状態で存在しようとも―彼の側で私を敵視していることが明らかだとしても―私の心がそうした名札を貼らない限り、彼は私の敵とはなりえない。
  
 この場合、「名札を貼る」という比喩的な表現は、必ずしも「恣意的に価値判断を下す」というような悪い意味ではなく、心が対象に名称などを付与する認識プロセスを指している。我々の分別の心は―味方や敵といった善悪の価値を伴う場合だけでなく―いかなる存在を対象とするにせよ、名札を貼る過程を経ずに成り立たせることができない。
    
 つまり、対象は心によってさまざまな存在として認識されるけど、それは対象自体の力でそのように成立しているのではなく、分別による名称の付与を通じて仮に設定されたものなのだ。このことを、仏教用語で「仮説(けせつ)」という。
    
今の例の場合、彼の敵対行為を主な因として、私は「敵」という名札を貼ったことになる。しかし、その代わりに、「彼は、煩悩によって悪業を重ね、未来に大きな苦しみを体験しなければならない」という思いから、「慈悲の対象」という名札を貼ることもできる。あるいは、「彼の敵対行為のお陰で、忍辱の修行ができる」という思いから、「上師にも等しい有り難い存在」という名札を貼ることもできるのだ。>62頁
   
 更に、以下のような解説が96頁にあります。
      
< 理論的に分析するならば、我々が怒りや執着を向けている本当の対象は、相手やその効果的作用の上に付加された実体性(自性)である。そのような自性は、勝義のみならず世俗の次元でも、全く存在しないものだ。つまり、相手や効果的作用には、それ自身の側で成立している固有の性質(自相)がなく、そのように自相がないのであれば、怒ったり執着すべき要素はどこにも見出せない。
   
しかし、現実に煩悩が発生している局面で、世俗有である効果的作用と、世俗無である自性・自相を区別するのは、容易なことでないだろう。
     
 煩悩の発生を完全に抑え込むためには、この両者を心底から実感する必要がある。そのためには、日常の効果的作用をはるかに上回るような、空性の強烈な直接体験を得なければならない。>
   
< いま我々が、空性を現量によって認識できなくても、比量によって理解した空性を諸縁として修習を重ねるとき、こうした強烈な空の印象を疑似体験すべく反復して努力するなら、不完全ながらも煩悩を少しずつ弱めていくことは可能だろう。>
  
疑似体験の一つを、私はセンサリーアウェアネス京都合宿で味わいました。
    
でもフィードフォワード制御が不十分なので、「相手の為」とか「義憤」とか「正義」「教育・躾」とかの名称をつけて、つい怒ってしまったりしがちです。
     
自ら怒ることは少なくなっても、悪口を言われるとか誤解されるとか、怒りを向けられたりすると、怒ってしまいがちです。
 
悪口も誤解もまた、私自身がくっつけた観念でしょうに。
 
と、自分を責めるのは、初学者。
 
観念とか私自身という言葉を使っていると、まるでそれが実体であるかのように思ってしまいがちです。観念とか私自身というのもまた仮説(けせつ)です。
  
仮説や観念が生まれる過程は、シンボリック交互作用論を使えばわかりやすくなると思います。
 
シンボリック交互作用論では
 
< 人間の行動を観れば、我々は世界における対象を、なんらかのかたちで翻訳・解釈し、その解釈に基づいて何らかのアクションをとる。あるいは、ある事柄が自分にとって持つ「意味」に基づいて行為する。
物事を解釈する際に必要となる「意味」とは、人々の社会的な相互作用によって生みだされる。
意味は、事柄に対処する際、継続される翻訳・解釈のプロセスにおいて扱われ、修正される、と説明される。>と説明します。
 
ただ、安易にシンボリック交互作用論や構造主義を採用すると、価値相対主義に陥りやすいように思います。
 
そうならないためには、公理系という数学的美的感覚が大切でしょう。
 
瞑想とは、フィードフォワード制御機能を十全に働かせ、バージョンアップをはかることでしょう。
 
小病は医に任せ、大病は死に任せる(弘一大師) 
 
銀河、太陽系、地球、人類、人間、私、細胞は、宇宙が夢見たことの表れ
夢を見ましょう
 
夢見る一歩は、呼吸をみつめること