偏倚する原子 偏倚する宇宙 創造と上達

私にとって、二度の臨死体験は、その後の人生に大きな影響を与えたと思っています。
 
ならば、大きな手術をした人は、その後何らかの人生の転換があっただろうと思ったりするのですが、確かにからだにメスを入れることは大きな負担で必ず何らかの変化が見られますが、必ずしもすぐに成長や上達に結びつく変容とは限らないようにも思います。
 
変容には、それまでの人生の文脈、交互作用が大きく影響しているように思います。
 
それを思うと、カウンセリングやセラピーといった交互作用の変容にも、同じことが言えるように思っています。
 
本人の望みとその文脈を軸にした交互作用で変容は起こると。
  
それで、種として、全ての人に創造と上達の思いは宿っていると思いつつ、それが発現するには、それを発現させるにはどうすればいいのか、と模索しています。
 
一つに、本人の人間観、宇宙観の自縛が、発現の邪魔をしていると思います。
 
「人間」という言葉を私達はごく普通に会話で使いますが、私たち一人一人が持つ人間観はそれぞれ違います。
 
例えば、人間の行動や欲望というものを考えたとき、
「食欲や性欲や睡眠欲などの、生命を維持するための欲求の集積が人間である」と捉える人もいるでしょうし、
欲求の階層論のように、「生理的欲求・安全欲求・愛情欲求・尊敬欲求・自己実現欲求といった低次から高次の欲求が階層のようになっていて、低次の欲求が満たされて次の欲求が発現する」という捉え方もあるでしょう。
私は、「人間、人類、地球は、宇宙が夢見た夢である。」と捉え、一番根本に、創造と上達への要求があると捉えています。昔の汎神論に近いでしょうか。
 
欲求も確かに階層になっているとは思うのですが、平面に欲望を積み重ねていくピラミッド型ではなく、立体的な階層です。
 
平面に低次から高次へ欲望を積み重ねていくモデル自体が、制御工学でいうところのシーケンス制御になっていているようにおもいます。
 
人間には、確かにシーケンス制御のような機構が働いていて、こうしてものを書いたり、しゃべったりできるのですが、さらに人間には、フィードバック機構やフィードフォワード機構があるでしょう。

ウィキペディアには、
<シーケンス制御(Sequential Control)とは「あらかじめ定められた順序または手続きに従って制御の各段階を逐次進めていく制御」である>
とあります。

また、あるHPには
<「シーケンス技能(sequence skill)」は継続した運動を順に自動的に行う技能という意味ですが、発語運動の場合では、話したいことばの音を順に組み立て、発語運動器官を順に自動的に実行する能力と理解することが出来ます。>
とありました。
 
階層論の説明の為に、たびたびデパートの例を出しますが、
おいしい紅茶を飲むために、地下の食品売り場でおいしい紅茶の葉を手に入れることは必須ですが、茶葉を手に入れるだけでは飲めません。別の階で、カップやソーサーを手に入れたり、あるいは熱源やお茶を楽しむ友人がいて、おいしい紅茶が飲めます。
 
花を見たり、人が音楽を奏でようと努力したり、その努力の結果を味わったり、舞踏を見たりするとき、ああこれも宇宙の夢、と私は思います。
 
私のからだはやがて崩壊すると自覚しつつ、私は宇宙の夢と思い、夢見る行為を続けること、そのことによって、やがて訪れる死も受け入れること(忘れ果てること)が出来ると私は思っています。
 
昨日アップしたエピクテトスの言葉を、今日もあらためて書きしたためます。
 
<「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。
 
だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。死が恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。
 
それゆえ、われわれは、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、決して他人を咎めてはならない。むしろ責むべきものは、われわれ自身、ことにそれに関するわれわれの考えである。
 
自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。」>