ヒトの死に処

ヒトの死に処
 
○死にとうない

「無痛症・遺伝性感覚性自律神経性ニューロパチー」といわれる疾患群があります。
 痛覚が欠如している疾患です。

 私は、本の中でしか知りません。ニューロパチーという言葉もあまり聞きなれない言葉だと思いますが、糖尿病ニューロパチーは、重症、末期の糖尿病の方の下肢にみられる神経症状です。軽度の糖尿病ニューロパチーの方には、出会ったことがあります。
 
 痛覚が衰えているので、火傷をしていても気づかなかったりしました。
 
 無痛症の場合、痛覚が欠如しているので、怪我や火傷をしても気づかず、それが重篤な事態につながることがあると聞きました。
  
逆に、友達のつれあいが、筋線維症になりました。
 
シャワーも痛くて浴びることが出来ません。
実際に体に触れる刺激だけでなく、ドアの閉まる音でも痛みが生じます。
家事も難しく、家の中に閉じこもっています。
 
適度な、痛覚、痛みは、生きていくには必要不可欠ということなのでしょう。
 
しかし、どの辺が適度なのか難しいです。
 
24歳の時だったか、アジア放浪の旅の途中、タイで赤痢になりました。
 
どす黒い腸壁が下痢となって流れ出て、頭は痛いし、お腹は棒を突っ込まれぐりぐりかき回されるような痛みでした。
    
 こんなに痛いのなら死んだ方がましだ、と涙を流しながら思いました。
    
 そして、痛みで気を失ってしまいました。
    
 でもその時は、「ああ死ぬんだな」と思いました。
    
 すると、それまでの痛みが嘘のように消え、大地にやさしく包まれる感覚になりました。
    
 今から思うと、気を失うほどの痛みでないと、そういう感覚にはなれなかったと思います。
 
 だから、どの程度の痛みが、長い目で見て適度なのか、よくわかりません。
     
 死にとうない、と死を恐れる気持ちも、適度に必要なのだと思います。
     
 世の中には、死は恐れる必要がないと説く人もいます。
     
 その一つの考えは、唯物論的人生観です。
       
< 人は死を恐れることにより最も心の平安を失うのであるが、死とは我々を構成する原子が分離することであり、魂も消滅するのだから、感覚も同時になくなるのである。
従って、我々は死に遭遇することはないはずである。なぜなら、我々が生きている間は、死はまだなく、死の来る時には我々はすでにないからである。>
といった考え方です。
      
 確かに、実体験として、あまりの痛さが極度に達した時、気を失ってしまい、大地に包まれた感じになりましたが、そういう体験を経ずに、この文章を読むだけで死を恐れなくなるとは思えません。
    
死を恐れるのは、それに伴う肉体的な苦痛だけが理由ではないでしょう。
   
また唯物論とは違って、普遍の魂が実体として存在し、輪廻転生を繰り返しているのだから、死を恐れる必要は無いという人々もいます。

 指を切るだけで痛いし、虫歯が痛くても、早く行くほうが良いとわかっていても歯医者さんへ行くのを躊躇してしまったりします。
     
 実在の痛みの前で、普遍の魂が実体として存在していると信じるのは、並大抵でないように思います。
    
    
○死を想え メメントモリ
   
 適度に死を恐れることは、大切と思います。死を全然恐れなくなると、交通事故が増えるように思います。
    
 しかし、死を恐れることについての「適度」も難しいです。
    
 死を恐れることが、様々なタブーを生みます。文化や制度にもなったりします。
 そうなると厄介です。
    
 突拍子もない突飛な言い方かもしれませんが、お金の借り貸しに利子がつくこと、銀行システムも、原子力発電も、私は「不適切に」死を恐れる気持ちから生まれたと思っています。
    
 死を恐れるのは、肉体的な痛みだけが理由ではないでしょう。「生きる意味・意義」の捉え方とか、人間観・自我観そのもの問い直しが必要です。後、認知論とか、公理系とか、複雑系の理解も。
     
 その問いなおしの為に、ぼちぼちブログを書いています。
      
 先日、家の前をヒメボタルが、一匹だけ飛んでいました。
 家の周辺では初めてです。ヒメボタルの雌は、飛ぶことが出来ません。
 ですから、移動範囲が限られています。
 あの飛んでいたヒメボタルに出会いがあったのでしょうか?
        
 ヒメボタルの光にも、ビッグバンのように、宇宙が凝縮しているように思いました。
    
 ヒメボタル 星に焦がれて 群れを発ち