お掃除日記11 わかりあうことと響きあうこと

お掃除日記11 「わかる」ということについて考えました
 我が家の長女と次女は、2歳違いです。長女はロングヘアーで天然パーマ、次女はショートカットで直毛です。それでも、二人はよく同一人物に思われることがあり、二人を並べて姉妹だと説明すると、今度は双子に間違われます。実際の一卵性双生児の場合でも、親はわかりますが、関係が薄いほど、判別が難しくなります。これは、「わかる」とは「分けること」ということがよくわかる(理解できる)例でしょう。
 理解の解にしても、判別の判にしても、分けるという意味があります。
 ですので、よくわかるとか、わかり合うとは、今まで以上に、あるいは他の人以上に細かく見分けることができるようになること、だと思います。
 ところで、日常で使う「わかる」とか「わかり合う」という言葉が、「本質をつかむ」とか「全体全てが分かる」「感じ方、考え方が一致する」という意味で使われることがあります。
 デカルト以来、近代科学や近代の啓蒙思想では、より細かく分け、よりデータを集めれば、理性や知性は本質が掴める、全てが分かる、と思ってきました。
 で、実際どうなのでしょう。夫婦生活や友達を長年続けていると、続けていてこそ分ける事柄は増えるでしょう。でも、どんなに長く暮らしていても、付き合っていても、このことは相手に伝わらないなあ、この人には理解できないだろうなあ、ということも「分かってくる」のではないでしょうか。付き合いが長いからと言って、感じかた考え方がすべて一致する方向へ進むとは限らないと思います。
 だから、私は「わかり合う」という言葉については慎重になります。めったに使いません。代わりに「響きあう」という言葉を使います。一緒でなくていいのです。バイオリンとピアノは、全然別の楽器です。でも響きあいます。(もちろんチューニングは大切なことです。)