熊楠の森を歩こう

 私達は、ヘレンケラー自身やサリバン先生が書いた本、それらをもとにつくられた映画を通して、「ことばを獲得する」ということがいかに大事であるかを改めて学びます。

 私達は、ことばを通して、考え事をし、世界を認識し、情報(や思い)を伝えあおうとします。 だから、人間らしく生きることを、ことば無しでは考えられません。
 
 一方、ことばの恩恵があまりにも大きいので、ことばを使うことによって(特に文字言葉によって)、大きな勘違いを生んだり、(そのことによって苦しみが生まれたり、)しているのですが、それに気付くことなく一生を終えてしまうこともあります。

 現代人は、客観的な時間はいつでもどこでも、一方向にのみ流れていると思っています。「人間は、時間と共に老いて、いつか必ずこの世を去っていく。死ぬことの恐れ、生きることの虚しさ・・・。虚しさの裏返しとしての貪り・強欲。」
 しかし、その恐れや虚しさ、貪欲が、私達のことばによる錯覚から生まれているとしたら。
 
 生きることとことばの関わりについて、特に苦しみとことばとの関わりを、丁寧に観つめようとしているのが、仏教であり、その具体的な方法が「止観瞑想」であり、龍樹の中観論であり、その流れをくむチベット仏教です。また西洋思想・哲学・実践の中では、社会構築主義(Social Constructionism)がそうです。

 よく知られているお経に、般若心経があります。般若心経の中に、「色受想行識(五蘊)」という言葉が出てきます。 これは、私達がこの世界を認識するとき、色(この世界)に対して、受想行識、つまり内外の感覚器官でその世界を受け取り、その人なりの限られたやり方で情報処理し、行動し、この世界を認識しているという仏教の存在論・認識論です。

 また社会構築主義では、「私達は、ことばを通して世界を構成している。」と説明します。

 ことばによって、考え事をしている、情報(や思い)を伝えあっている、
ことばは大切だ、ということは多くの人が認めていることでしょう。

 ただそのとき、この世の中には、実に沢山の名前・言葉があるが、その名前に対応して色々なものごとがそのまま存在している、と思いがちです。
 
 例えば、原子核、電子、水素、炭素、酸素、水、石油、花崗岩、砂岩、猿、人間、桜、日本海、太平洋、富士山、エベレスト、淀川、ミシシッピ川、日本、アメリカ、中国、ユーラシア大陸、地球、月、太陽、銀河系、そして「私」といった具合です。
 
 本来の瞑想的な仏教や社会構築主義はそうは思っていません。

時間が一方向にのみ流れているように見えたり、過去・現在・未来に分かれているように見えたり、その先に死があるように見えたりするのは、実は、使っている言葉によって作り上げた世界像だと仏教は説明します。特に文字言葉が、大きな影響を与えています。

ことばによって文明を発展させてきましたが、その言葉が今多くの問題を生んでいます。

人類の発生は、約700万年前といわれています。そのうち、言語を使用はじめたのが、約20万年前。そして、文字を使い始めたのが今から約6000年前です。

ことばを使ってきた20万年のうち、19.4万年の間、人間は無文字だったのです。

生まれた時から文字のある文明社会のなかで育ってきた私達は、無文字世界といえば「遅れている、未開、未発達」といったイメージを想いがちです。無文字世界の豊かさ、奥深さ、世界観を感じるためには、どっぷりつかってしまっている文字習慣から抜け出す必要があります。
そのひとつの手掛かりが、文字言葉から離れて、文字言葉がなかったころの古代語を使って暮らすことや止観瞑想の実践です。

「暴力はどこから来たか」の著者の山極寿一さんはこう述べます。

<< 人間の社会性を支えている根源的な特徴とは、育児の共同、食の公開と共食、インセストの禁止、対面コミュニケーション、第三者の仲裁、言語を用いた会話、音楽を通した感情の共有、などである。霊長類から受け継ぎ、それを独自の形に発展させたこれらの能力を用いて、人類は分かち合う社会を作った。それは決して権力者を生み出さない共同体だったはずだ。われわれはもう一度この共同体から出発し、上からではなく、下からくみ上げる社会を作っていかなければならない。p.227 >>

 20世紀のフランスの哲学者メルロ・ポンティは、ことばには2種類あると考えていました。
ひとつは、「すでに社会的に意味が確立しており互換可能な語句を組み合わせて文を作る、情報伝達のためのことば」もう一つは「生きて語ることば」「今、生まれ出ることば」です。
文字言葉は前者に近く、古代語・語り言葉は生まれては還っていく生きたことばです。

 私達が普段使っている言葉の中に、古代語が埋もれています。

 古代語を学び、語りあい、聞きあいながら、熊楠の森を歩いてみましょう。

 きっと新しいゆたかな共に生きる世界(とこよ)が開けてくると思います。
 

南方熊楠も歩いた
熊野古道・大門坂を
古代語と地球生命誌を学びながら
散策いたしましょう

 6月6日 土曜日 午後2時
 市野々大門坂駐車場集合

 熊野地方では、ひとや動物に対しても「ある」といいます。古代語で「ある」とは「生る」という意味で、神聖なものが生まれるという意味があります。「さか」は、坂を意味するだけでなく、「境」「逆」「栄」「盛」「咲か」「酒」などの意味があります。

 大門坂は、あの世とこの世の境にあるいやしろち(タイムマシン)。 神が降り立つ峰につくられています。この「サカ」から常世(とこよ)へタイムスリップする(さすらう)のは、あなたの「あるがままなりゆきまかせ」。 あっは〜〜。

 649−5302 那智勝浦町市野々3987 NPO熊野みんなの家
0735−30−4560 090−6987−6679 (阪口圭一)
http://facebook.com/K1Sakaguchi
雨天でも行います。参加費無料。