朝、目覚めてすぐ、あなたは寝床の中で、何を思いますか? 

はじめに
 私が、この文章を書くきっかけとなったのは、友人のコメントです。私は、コメントの要旨を以下のように解釈しました。
 <日本人は「支配される」ということに余りにも無頓着である。><現代の奴隷は、自ら奴隷になり、しかもそのことに気が付いていない。>
 私もまた日本に住み、日本語で思考し、会話する人なので、「支配(操作・ナッジ・誘導)されることに無頓着であり、しかも自覚がない」という日本人の一人であろうと触発され、日々生きることの思いをまとめることにしました。

 私の場合、「支配」ということばに代わって、「疎外」ということばを使います。 <私は、「疎外する」ということに無頓着になりがちです。 他者や自分を疎外していながら、しかもそのことに気が付いていない。>と。

(「支配される」は受動態であり、「疎外する」は能動態である、という違いはありますが・・・)

〇「支配される」「疎外する」「無自覚・気が付いていない」ということの反対語をそれぞれ考えました。

 「支配される」ということばに対しては、「自由」「創造的」「自律」「(非暴力)不服従
 「疎外」ということばについては、「自分の利益目的の手段にしない」「いまここをいきる」「世界内存在」「縁起性」
 「気が付いていない・無自覚」については、「自覚」「アウェアネス」「マインドフル」「センシティブ」「観」

〇さらに「自由」を、「行動(行為)」に結びつけて考えました。

 ここでいう「行動」とは、からだを動かし、他者や環境に働きかけることだけでなく、行動分析学でいうように、死んだ人にはできないことのすべてを言います。だから、ひとり静かに考えることも「行動」です。

 「自由」とは、多種、多様、階層的な世界観=世界仮説(以下世界仮説と表記します)、理論、具体的な行動の選択肢から、自覚的に選択し、行動すること。
 我が身を振り返ってみれば、自由意志で行動しているつもりでも、実は、環境からの刺激を受けて、無意識的に反応してしまっていることが多いと思います。国家、地域社会、家が規定している文化、風習、価値観、常識、法律などを、そのまま受け入れてしまっていることも多いです。

 「多種、多様、階層的な選択肢から、自覚的に選択し」と述べましたが、そもそも選択可能な選択肢が限られていること自体が、「被支配」であるように思います。 支配するのは、自然の摂理であったり、自然環境、社会的環境です。
 その最たるものが、母国語だと思います。 何語を母国語とするかについては、新生児には選択の余地がありません。
 お腹が空いたからと言って、木質をバリバリ食べる選択肢は、人間にはありません。

〇私たちは私たち自身の、行動選択の基準になっているおおもとの世界仮説を自覚的に選択しているでしょうか?

 アメリカの哲学者ペッパーは a)世界は「要素」で構成されているとするか b)世界を1つの「ストーリー」として語ることができるとするか の2つの基準で、2×2=4通りの世界仮説、1、機械的、要素論的世界仮説 2、有機体的世界仮説 3、形相的世界仮説 4、文脈的世界仮説に分類できるとしました。そして、各世界仮説は自律していて、世界仮説の折衷は、混乱を招くとも言っています。

 世界仮説の選択も、あらかじめその時代の主流となっている世界仮説や生まれ育った風土の世界仮説、育った家庭の価値観によって限られているようにおもいます。
 私が無自覚的に、最初に身につけた世界仮説は、要素論的世界仮説(機械的世界観・素朴実在論)です。

〇私たち人間は、「ことば<<記号」によって文明を発達させてきました。そのことばは両刃の剣。 

 地球の歴史は、46億年といわれています。46億年を、460mの道に例えると、人類が農耕を始めたのが、1万年前、つまり460mの道では1mm前のこと。 文字の使用は、数千年前になります。 この「文字<<記号」のお陰で、私達は文明を発達させてきました。 「文字<<記号」は、時空を超えて、情報・文化・知識を伝えることが可能になります。
 
 ところで、あなたはこの「文字<記号」の弊害、文字による支配についてはどう思いますか?

 テーブルの上にリンゴとみかんとコーヒーカップがあります。 私は阪口圭一です。 こういう表現を繰り返すうちに、目の前にあるリンゴ、ミカン、コーヒーカップ、阪口圭一が、実体としてあるように思います。 リンゴはみかんではありません。 リンゴでありみかんであるような果物はありません。 コーヒーカップは、確かにあります。  しかし、それらは、リンゴとして、ミカンとして、カップとして永遠不滅の実体としてありますか?
 
 ことばを使ううちに、ことば・単語に対応して、ものごとが実体的に、独自に存在しているかのように思ってしまうこと、これはことばの弊害、ことばによる支配であると私は思っています。 実体視がどう弊害かというと、例えば「過去」「現在」「未来」をそれぞれ独立した要素としての時間感覚を生みます。

 要素論的時間感覚では、時間は一方向にのみ流れ、「今ここ」は、何かに向かう不完全な過程に過ぎず、やがて必ず訪れるのは「死」であり、その虚しさ・怖さの反動として、富や権力、名声、賞賛に執着、あるいは、悟り、救済、健康などへの執着を生みます。今ここは、常に何かの過程、手段となり、疎外を生みます。
 (今ここが、常に何かの途上であるがゆえに、突き抜けると、途上がそのまま「永遠」となるのですが・・・)

 実体視はまた、自他、自分と環境の対立感も生みます。 自分を実体視すればするほど、周りの人、周りの環境は、自分の思い通りにならない存在として浮き上がってきます(一切皆苦)。 どんな権力者であっても、小さな歯車でしかなく、自然は利用すべき資源となります。 (大地や海を母というのなら、どうして山を削り、海を埋め立てるのでしょう。)

 しかし、独立したものごとが要素となって、要素が集まってこの世界が成り立っているとみる、要素論、機械的世界仮説が、記号を使う動物=人間のオーソドックスで常識的、多数派的な世界仮説ですね。 臓器移植は、この要素論が前提になっています。
〇ある選択肢が他の選択肢から独立してあるように見えるのは、要素論的機械論的世界仮説を前提としているとき。

 要素論においては、意識と無意識、精神と肉体、感覚と運動、ものとこと、生と死などは、対立した概念です。 しかし、実際生活においては、意識的行動と習慣的行動、生と死は、階層的で、同時性、二重性のものです。 例えば、自動車の運転とか楽器の演奏を、100%自覚的、意識的に行うことはありません。
 芸能、スポーツや武道において、習慣化されたからだの動きが必要で、その習慣化された動きが、新たな創造の障害になったりもします。 (守破離
 母国語以外の言語を学ぶとき、母国語での習慣が他の言葉の習得の障害であったりする(例えば日本人にとって、RとLの違いがむずかしい)と同時に、母国語の習得がしっかりしていないと、新たな言語を獲得することも難しくなります。


〇与えられた選択肢を自由意志で選べば、自由な気がするけれど・・・  操作・催眠・誘導・洗脳・ナッジ アブダクション

 コーヒーにしますか?紅茶にしますか? 自分の好みで選べば、自由な気もするけれど、ミックスジュースを選択するという選択もあれば、自分で淹れるという選択肢もあります。何も飲まず、深呼吸するということもありです。
 要素論的世界仮説においては、他人に働きかけるというのは、つまりは、相手の行動を変えることです、啓蒙という表現を取るときもありますが、別の表現をすれば、「操作」「催眠」「誘導」「ナッジ」です。
 そして、催眠と相手に気づかれずに誘導・支配するテクニックが、限られた選択肢の「質問」や「権威による説得」です。

 与えられた選択肢ではなく、新たな選択肢を創造するには、与えられた選択肢から選ぶという前提とは違う前提が必要です。今ある前提と違う前提を採用するには、帰納、演繹といった推論だけでなく、アブダクション・仮説的推論という推論が必要です。 好奇心や試行錯誤が大切です。

 私の限られた経験ですが、高校生の頃、演繹や帰納という推論は習ったように思うのですが、アブダクションは習いませんでした。 川喜田二郎氏のKJ法を知った後も、それを分類法と思い、アブダクションであることを知りませんでした。
 
 集団の中で、当然自明とされている前提とは違う前提を提案するには、勇気が必要です。 自明とは違う前提を提示する人を、変わり者とか、異端児とか、常識はずれ、時には犯罪者にされるということもあるからです。
 逆に、アブダクションのない推論からは、新しい発想、創造、選択肢は生まれないように思います。


〇クラスでハイキングに行くことにしました。 行く先はどのように決定しますか?

ハイキングの行き先を決めるといったことのレベルでも、前提があり、推論があり、選択肢の決定があります。
 私の経験では、「最大多数の最大幸福」が前提・建前であり、最終的な決定は「多数決」でした。
 今まで、何度となくこういう決定に関わってきて、これまでそれらを疑うことがなかったのですが、果たしてよかったのだろうかと今になって思います。 声にならない声を、支配し疎外してきてはいないだろうか、と。
 あなたは、これ以外の方法を知っていますか? 

〇「コミュニティにおける公共性を考え、実現するには」という集まりの参加者の一人が、自閉症の子どもさんを同伴してきました。

 ときどき、その子どもが自分の興味関心のあることについて、講師に質問します。講師が予定していたプログラム通りに進みません。あなたが、講師ならば、どうしますか?
 あなたにとって、公共性とはどういうことでしょう? 講師の自由、参加者の自由、子どもの自由・・・

 別室で、誰かほかのスタッフが、子どもの相手をする、という選択肢を思うかもしれません。 でも、子どもである彼も、その場にいたいとしたら、どうします。 また、別室や他のスタッフという余裕がない場合などどうしますか?

 最大多数の最大幸福、功利主義という(要素論的な)前提とは違う前提があることを知りました。
 
 その(世界内存在的)前提だと、講師は例えばこういう提案をするのではないでしょうか。
 「さて皆さん、ご覧の通り、講師である私は今困難に面しています。 この困難を皆さんと一緒に解決したいと思います。 どういう選択肢があるでしょう? これこそが公共性について考え、実現する実例と私は思うのですが。」


〇朝目覚めて、寝床の中で、私は呼吸を見つめます。

 私が何かを考える以前に、60兆個の細胞、100兆個の細菌群は、生きて活動しています。考えたり悩んだりする以前に、呼吸しています。心臓が拍動しています。血液がからだの隅々まで流れています。生命の誕生以来続いてきた営みです。

 私は母国語で何か考えます。 母国語は私が作ったものではありません。 発音の規則、単語の意味、構文の規則など歴史の中で形成されたものです。
それらはあまりに自明なことなので、自覚のないまま、言語ルールに従って、私は推論を始めます。
 言語ルールとは、「Aという状況において、Bをすれば、Cという結果になる。」という各自の信念です。 「いまの状況は、Aに近い、だからCを求めて、Bしよう」などと無意識的に言語ルールに従って、行動の選択をします。 言語ルールは、私自身の経験もほんの少し含まれますが、先人が、知識、智慧として伝えてきたことがらの上に成り立っています。

 仏教では、人間の営みに対して「一切皆苦」といいます。 「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」。孤立した「私・我」に「自由意志」があるとは言えない。 そして「一切」とは、「色と受」だといいます。 つまり、私達が言うところの「世界」は、実は「世界と認識」であると。 そして、その「認識」は、世界そのものをとらえきれません。 人間の目は、魚のように360度見えませんし、聞こえる音の範囲も限られています。 私達はいつも「世界」を「解釈」しているのでしょう。 解釈はひとつではありません。 解釈をめぐって、ひととひとが争ったりします。
 世界は一つのストーリーで語れるわけでない、とするのが、文脈的世界観です。 めでたさもちう位なりおらが春。
 そういう風に毎朝自分と語り合いした後、私は寝床から出ます。

うかうか暮らす、あるいは慌てて暮らすと、つい習慣的に、世間的、要素論的な世界仮説とその選択肢を選んでしまいます。 自覚のないまま、他人を操作しようとし、上手くいかないときは、自分の思いのままにならないと腹を立て、苦しんだり、諦めたりします。
生活のリズムは、呼吸とか食事、嚥下が基礎となるので、ゆっくり呼吸し、ゆっくり食事するようにしています。
2018年 4月 649−5302 那智勝浦町市野々3987 阪口圭一