なにもしらない
山の道を歩いて、ふと足元を見、そして思った。私は何もしらない。
ここ数週間、思想や理論としての「全体論」「世界内存在」ではなく、生活そのものが全体論を生きている暮らしとは、具体的にどのような暮らしだろうか、と考え続けてきました。
そして、理論として全体論、複雑系、ゲシュタルト、アフォーダンスに魅かれているとしても、実際生活は要素論や二元対立論で生きているではないか、と思ったのです。
例えば、「認識」や「行動」といったとき、刺激があって、それを感覚器官が捉えて、感覚の末梢神経から、中枢神経・脳に伝えられ、情報処理され、反応や指示が運動神経によって運動器官に伝わり、からだが動く、そのようなモデルを疑いもなく前提としていました。
そして、単語を組み合わせて、文章にし、それで考え事をすること自体が、もう要素論ではないかと、思うのです。
アメリカの哲学者Pepperという人が、世界観は、「世界は要素で出来ているか」「世界は一つのストーリで語れるか」についてのイエスノーで、おおよそ四つに分類できるといっています。
機械的世界観、有機的世界観、形相的世界観、文脈的世界観の四つです。
その四つの内のどれが、自然界や人間世界を的確にとらえているのだろう、と考えたりしていました。
そして、山の道を歩いていて、私は何も知らない、その四つとも、仮説なんだと思いました。
図鑑を調べれば、草木の名前を知ることができます。 生物学や植物学を学べば、構造や機能を知ることができるでしょう。
しかし、もし、目の前の草木に意識があると仮定して、今日一日何を思い、どう過ごしたのか、その生命体の中で、根っこと大地の間で、葉っぱと空の間で、何が生まれたのか、変化していったのか、私は知らない、そう思ったのです。
草木だけでなく、世界には約70億の人が暮らし、ひとりひとりにとって今日はどのような日なのか? すでに亡くなった人々の人生はどのようであったのか、何も知らない。
自分自身についても、今自分の血管の中で、腸の中で、どのようなことが営まれているのか、何も知らない。
だけど、命は営まれている、・・・
枯葉が大地に落ち、そのままそこで土になる枯葉もあれば、人に集められ腐葉土になったり、焼かれて灰になるものもいる。雨に流れ、海の底に積もるものもいる・・・・・・
これが全体論(仮説)なのかもしれない、と。