私は全体論を知っているのか、全体論で生きているのか

1. 生きるということは操作することだと思う
 生きるということは、自然環境や社会環境、自分自身に働きかけて、その有様を変え、自分が生き延びるのに都合がいいようにすることだと思う。
 
2.人間は、操作の方法を学ばなくてはならない
 人間は未熟児で生まれてくる。生まれたばかりの赤ちゃんは、見ることも、しゃべることも、歩くことも出来ない。赤ちゃんは、幼児は、一人では生きられない。

 人間は、その成長過程において、自然環境や社会環境や、自分自身に働きかける適切な方法を、学んででいかなくてはならない。
 
3.認知
 人間は、環境に対して適切な操作の方法を学ばなくてはならないが、他の動物と較べて、その選択肢の幅が大きい。
 
 行動は、環境から淘汰されるが、人間の行動の場合、行動と淘汰の間の時間が長かったり、社会環境からの淘汰が一様でなかったりするからだと思う。
 
 ある行動に対して、社会環境からの淘汰が一様でないのは、行動への評価が一様でないからだと思う。社会環境の側の評価が一様でないのは、「人間の認知」の幅が大きいからだと思う。
 
 一時期、ウコン茶のブームがあった。その後、ウコン茶には、効果がなく、むしろ害になることがあるという、研究発表があった。それでも、飲み続けている人は飲み続けている。

4.部分と全体 個人と社会 人間と自然の関係について
 世界を色んな部分・要素に分けることができる。
 人間の手を、人間全体の部分と見ることが出来る。
 人間を、人間社会全体の部分と見ることが出来る。
 人間社会を、自然全体の部分と見ることが出来る。
 しかし、部分と全体の関係の見方は一様ではない。
 
 個人という部分は人間社会全体を離れて生きてはいけない。
 
 個人という部分と部分は対立する、これが部分と部分の関係の本質だ。
 個人という部分と人間社会全体も対立する、これが部分と全体に関係の本質だ
と思っている人もいる。
 
5.操作が上手くいかない時
個人は個人を操作する。
自分にとってよい結果が生まれた操作は、基本的に持続して行う。
上手くいかない時、ほかの選択肢があり、やってみてよい結果が生まれると、基本的にその選択肢を選ぶ。
 どの選択肢を選んでも、上手くいかない時、選択肢を選ぶ元の信念そのものについて、考え直す。
 どの信念に対しても、よいとは評価しない場合がある。

6.ある操作に対しての反応や結果は一面的とは限らない
 ダムを建設する、ということは、治水、電力の面で、メリットをもたらすことがある。同時に、自然環境破壊を進めていることがある。
 
7.わかっちゃいるがやめられない。ここは我慢のしどころだ。
 ある操作に対して、その操作の直後に返ってくる反応・結果と、将来的に返ってくる反応・結果が対立する時、我々は悩むが、直後の反応をもって、選択することが多い。が、その逆もある。

8.ある行動に対しての評価、反応、結果は、社会的、時代的に構築される
 内面の葛藤、個人と人間社会全体との対立観、はその個人に苦しみを生む
 
 操作には、適切(調和的)な操作と不適切(対立的)な操作があり、不適切な操作を選ぶから苦しいのだ、という考え方があり、
 操作しようにも、操作できないものがあり、それを操作しようとするから苦しいのだ、という考え方があり
 一切の操作は、元々苦しみを生むのだ、という考え方があり、

 苦しみを生み出しているのは、その個人の要素論的な認知・幻想だ、という見方がある

9.四苦八苦 
 具体的な痛みをどう捉え、どう対処すればいいのか?
 老いるということ、衰えるということを、どう捉え、どう対処すればいいのか?
 死ぬことを恐れることをどう捉え、どう対処すればいいのか?
 自分自身の中にある恨みや妬み、隣人の中にある恨みや妬みをどう捉え、どう対処すればいいのか?
 
 操作を放棄する(諦観)しか、真の解決はないのか。

10.霊性 全体論
 霊性という言葉は、宗教界では昔からよく使われた言葉だけど、
 医療や健康の世界でも、よく使われる言葉になったようだ
 
 国連の世界保健機構の会議で、健康の定義に、「霊的な健康」を文言に入れたらどうかと議論されたようだ。
 
 人間が今抱えている問題は、全てにわたって、技法や信念の選択肢を変える事ではなく、認知そのものの問題、と捉えるヒトが多くなったのだろうか?
 
 霊性とか全体論といっても、人によって、言葉の定義がまちまちのようだ。
 言葉の定義を知ることと、言葉を生きることとは、次元が違うようだ
 
 全体論という言葉を知っていても、全体論を生きることを私は出来ているだろうか?
 個人と全体の間には、実は対立はなくて、対立があるとするのは、個人の幻想であるということは、実はどういうことなのだろう?