「と」という助詞にちなんで

k1s2013-06-04

「〜と〜」という助詞、なかでも並列の助詞について、私は、十分使いこなしていると思っていました。
    
パンとバター、テーブルとイス、医師と看護師、針と糸
といった具合に、名詞を二つ並べ、その間に「と」を入れて使います。
実際、それらは横に並べることができます。
   
そうやって「と」という助詞を使っているうちに
「と」という言葉で結べて表現できたら、それらは、実際生活上でも並列できるものだと思い込むようになっていました。
   
例えば
肉体と精神、全体と部分、神と私 
という風に何の疑いもなく日常で使います。
そうやって使っているうちに、
肉体と精神は実際横並びできるのか、全体と部分は横並びの関係なのか、
確かめもせず、できるかのように思い込んでいました。
部分と並べることができる全体などという「全体」があるでしょうか。
「イスとテーブル」のように、「肉体と精神」を並べることができるでしょうか。
  
「玉ねぎとじゃが芋」は横並びできます。
「野菜と胡瓜」「果物とリンゴ」という表現はおかしいですね。
  
では、「ウサギとカモ」「老婆と若い女性」なら横並びできると思うでしょう。
    
ならば、添付した図を観てください。
   
見方によって、老婆に見えたり、若い女性の横顔に見えたりします。
つまり、この絵から、私たちは「老婆と若い女性」をみいだすことができますが、実際に見えているのは、一人の女性あって、老婆と若い女性が横並びに見える訳ではありません。
ことはそう単純ではありません。
 
 
また、
「神と私」と表現してしまえば、その神は、私と横並びにできる対象物になってしまいます。
    
国語的な表現として、「神と私」と表現できますが、
私と神を、私は、実際に並列させることはできません。
なぜなら、神は私にとって対象物ではないからです。
   
   
<「できること」と「できないこと」>という風に、この世の出来事や行為を、単純に二元論に分けることができたら、どんなにすっきりすることでしょう。でもすっきりしても、それは、無味乾燥な世界かもしれません。
   
「人間コミュニケーションの語用論」の中で、著者ワツラウィックは、コミュニケーションの第二公理として次のように述べます。
   
< 全てのコミュニケーションは、「内容」と「関係」の側面を持ち、後者は前者を規定するのでメタコミュニケーションである。>
   
内容と関係は、横並びではない、と述べています。
   
言ってみれば、内容と関係は、「りんごと果物の関係」のような関係と言っていると思うのですが、ついつい、「りんごとみかんの関係」のように受け取ってしまったりします。
 
ともかく、自分の発言に対して、自分の発言内容が相手に伝わっているかどうかだけでなく、この発言によって、自分はどのような関係を結ぼうとしているのかという自覚と、実際どのような関係の中から、どのような関係が生まれたのかと観察する観察力が必要ということでしょう。