縁起の法を生きるということ たとえば注意するという行動を事例に

k1s2013-06-01

ある場面で、例えば子育て中に子どもの行動に対して、「あ、間違ったことをしている」と判断し、注意することがあります。
   
すこし瞑想的に観察してみましょう。
来週から期末試験が始まるときに、子どもさんが、夜遅く絵を描いていたとします。そこで「来週から期末試験でしょう。勉強しなくていいの!」と言ったとします。さてこれは「注意」になるか、ならないか?
   
注意というのは、その前に「相手が間違ったこと、適切でないことをしている」という判断があります。<期末試験を前にして、夜遅くまで起きて、勉強をせず絵を描いている>、それを「間違っている」と判断していますが、この判断は妥当なのでしょうか?
実際期末試験が迫っているとして、「絵を描く」ということがどうして間違っていると言えるのでしょう。
間違っているのではなく、<自分の想い、自分の理想通りの行動を相手がしていない>、という判断をしているのだと思います。
   
人が誰かに注意する時、「私は、義や法に基づいて、注意しようとして注意している、だからこれは注意だ。(決して攻撃や批判、否定ではない)」と、大抵自分の行動を信じて疑いません。
   
自分が自分の行動、発現の内容を注意だと認識して行動したとして、それが注意となるかどうかは、発言者の行動や判断にあるのではなく、「その場、その時の縁起」にあると思います。
   
もし何らかの場面で注意するとしたら、「私が何とかしなくては。これは注意だ」と思いつつ注意するのではなく、「これは注意になっているだろうか」と、自らに問いながら注意するのが、縁起の法を生きる生き方、つまり仏教の実践と思っています。
  
このような文章を書く目的は、自戒です。
「語用論」という言葉を以前から知ってはいましたが、今学びなおす中で、あらゆるコミュニケーションには、「情報を伝える(報告)」という面と同時に、「関係をつくる」という面があるのに、関係をつくるという面について、私自身忘れがちになるからです。
  
「関係をつくる」という表現なら聞こえがいいですが、グレゴリー・ベイトソンの表現だと「影響を与える・命令する」ことでもあります。「相手の行動を拘束する」と表現する人もいます。
 
直に対面してコミュニケーションする時、話し言葉だけでなく、顔の表情、姿勢、語調などが、話し言葉の内容を補足してくれたり、関係をつくってくれたりします。(逆の作用ももちろんあります。)

インターネットの場合、絵文字というモノもありますが、書き言葉が中心で、次々情報が流れるのでかえって文脈は途切れがちで、デジタルな内容だけがそのまま伝わってしまうという面があります。
    
それにもともと、私は情報の伝達(デジタル)に意識が集まり、自分の発言がどのような関係を生みだしているのか(アナログ)ということに無自覚になりやすいという傾向があります。
   
振り返ってみると、夫婦喧嘩をしたとき、自分は冷静に語っているつもりなのに、なかなか喧嘩がストップしなかったのは、コミュニケーションの情報伝達の面ではなく、関係形成の面に無自覚であったからだなあ、と思います。