朝に道を聞かば 夕に生きて 死すとも可なり

k1s2013-05-29

少年期から青年期にかけて私は、論語の中にある「朝聞道、夕死可矣」という言葉に魅かれていました。
 
私の少年期と言えば、高度成長期の頃で、東京でオリンピック(1960)、大阪で万博(1970)が行われた頃です。当時も今と同じ、紀伊半島の端、生まれ故郷で暮らしていました。戦後生まれの私には戦争の体験はありません。宮崎駿監督映画の「となりのトトロ」のような風景の中で暮らしました。母の手にひかれて、川に洗濯に行った思い出があります。
 
ただ、高度成長期は、そういった牧歌的な風景が壊れていく時代でもありました。海を埋め立て港をつくり、山を削り、河川を掘り返し、砂利が都会へ送られていきました。四日市ぜんそくに代表される大気汚染、水俣病イタイイタイ病に代表される水質海洋汚染が広がった時期でもあります。
 
「学歴社会」とも言われ、若者にとって、都会へ出て学校へ行く、できるだけ有名で大きな会社へ就職することを目指すのが、おおよその人生コースでした。
 
私の父は国鉄職員だったので、破産することなく暮らしてはいけましたが、分類するなら貧乏の部類に入っていたと思います。6つ年上の姉は、大学進学を諦めて都会で就職しました。お盆と年の暮には、借金取りが家に来たこと、生活費をめぐって父母が月末になれば必ず喧嘩していたことを覚えています。
 
 私は、家族に希望を持てず、社会にも希望を持てず、また自分自身にも希望を持てずにいたのだと思います。その裏返しで、「道」を体得したなら、自分が変わり、希望の持てない社会でも生きていけるのではないか、あるいはこの社会を超越できるのではないか、と思っていたように思います。
 
孔子の「朝聞道、夕死可矣」を、「朝、道(事物当然の理)を聞いたら、それで修学の目的を達したわけだから、その夕には死んでもいい。」と、自力風、個人主義風、求道者風に解釈していました。
 
「朝聞道、夕死可矣」は、個人の内面精神のことだけを言っているのではないということを知ったのは最近です。「朝天下に“道”が行われているということを聞けたら、夕方には死んでもいい。」という解釈の方が実は、孔子の意図するところであると。
 
「夕に死すとも可なり」ということの意味は、おかれた状況によって変わってきます。例えば、孔子がそうであったように、そこが戦乱の現場であり、明日の命は知れぬ状況であるかどうか、といったことで違ってきます。

今なら、もし内面精神世界の真理を悟ったとして、それで人生が終わりではないだろう、そもそも、個人が他の存在と独立して存在している訳ではないと(縁起の法・宇宙の自己組織化を)体得することが「真理」だろう、と思います。
「朝に道を聞き知ったなら、夕にはそれを生きるべし、実践すべし」と思います。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の言葉を使うならば、ファンタージエンの世界を味わう事、そしてまた「ここ」へ帰ってきて、両方の世界を生きること。
 
朝に道を聞かば 夕に(道を生きて) 死すとも可なり