私達の讃歌 1991年

私は、1981年に結婚しました。以来、「私達の讃歌」という家族ミニコミ誌を不定期に発行してきました。本棚を整理していて、1991年に書かれた22号「暮らしを選びなおす」が出てきました。
   
それを当時そのままの文章でここに書こうと思います。
     
「私達の讃歌」NO.22.1991.<暮らしを選びなおす>
    
<< 僕は子持ちの受験生 >>
     
1990年4月、18年振りに受験生になることを志した時、私は36歳になっていました。長女は8歳、次女は6歳、長男は4歳でした。6ヶ月後に控えた入試にむけて、会社勤めと子育てをしながらの受験勉強が始まりました。
私が入学を志望したのは、柔道整復専門学校です。すでに開業している方に相談してみると、入学試験の倍率は十数倍(*1)あり、予備校に通っている人もいると聞きました。私が受験勉強に当てることのできる時間は、一日平均約2.3時間です。勉学のための書斎はなく、子供達が遊んでいる居間兼台所のテーブルでの勉強でした。
    
<< なぜ柔道整復師を目指したのか >>
    
私はものごころついて以来、「この世に様々な苦しみがあるのは何故だろう。どうすれば、苦しみを解決できるか。」という課題が人生のテーマとなり、ゆくゆくは、人々の苦しみを解決する手助けを仕事にしたい、その中でも、人の「からだ」に触れる仕事がしたいと思っていました。鍼灸学校や柔道整復師学校の存在も知っていましたが、入学試験、諸費用の問題、三年間の都会暮らしなど、難関があって、実現は難しいと思っていました。
    
「からだ」に触れることを仕事にするまでにはいかなくとも、日常生活の余暇を苦の生滅と「からだ」に関する勉強に当て、勉強会を主催し、日常生活に活かしていました。
     
私が育ったここ熊野地方は、古来より黄泉の国に通じる聖地として、各時代を通じて様々な人々の信仰を集めてきました。そして今も、魂の蘇りを求めて、老若男女が熊野を訪れます。
私達は、家族で山を切り開き、一軒家を建て、「みんなの家」(*2)と名付け、無料で開放してきました。この地を訪れた入植希望者、演劇人、ミュージシャン、陶芸家、宗教家、市民運動に携わる方達と瞑想をし、熊野の山々を歩き、コンサートを開催するなど交流してきました。私もあるミュージシャンとの出会いによって、4年前からギターの弾き語りを始め、年に何度か自作自演のコンサートを催し、街角でも歌ってきました。
    
人と出会い、結び合っていく中で、苦しみの原因は、無意識層(*3)にある思い込みや決めつけであり、更にその無意識層の深層には、無限の宇宙が広がっていると体感することが多々ありました。
私が難関と思っていることも、私自身の思い込みではないかと感じるようになり、家族と可能性について検討し、狭き門であってもチャレンジすることを決意しました。
     
<< からだについて >>
      
私のいう「からだ」とは、心や精神に対しての肉体とか身体という意味ではありません。人間存在を心と身体に分化する見方以前の見方、いのち、全存在、測り知れない宇宙を内に秘めたるもの、という意味で使っています。
私は、苦の生滅を人生のテーマにして生きてきました。その模索の中で、精神分析学を知り、創始者フロイトを知りました。フロイトとの出会いによって、深層意識の存在を知ったのは大きな収穫でした。しかし、その深層意識の探り方や解釈の仕方、問題解決の仕方については、疑問を感じるようになりました。
     
浅学な知識と体感ではありますが、フロイトはあまりにも否定的に深層意識をとらえているように思います。確かに無意識層の浅部には、思い込みや決めつけ、病的で抑圧的な意識層が存在することがあります。しかし、その深部には、もっと豊かで明るく繊細かつおおらかな芸術的意識層が存在していると思います。(*4)自然の中での瞑想、山歩き、歌を歌っているとき、にそのことを実感します。
       
古来より「道」を求めた東洋の先達は、各武道や芸能、瞑想の呼吸法、ヨガ等の例が示すように、からだの動きや働きを通じて心理を探ってきました。理想的なからだの姿勢を自然体といい、その時、その動きに最小限必要な筋肉と意識のみを働かせ、それ以外は自分の内奥に任せることにしてきたと思います。つまり、意識の働きが無意識と調和することが無心の状態であり、無意識層への絶対肯定がそこにあります。
       
武道や芸術を特定の人達だけのものとせず、私達一人一人がこの自然体を体得し、お互いのからだに触れあい、お互いの内面に果てしない宇宙が広がっていると感じあうことによって、人と人、人と自然との関係の結び方が変わり、個人の病気の治癒から様々な社会問題、地球環境問題に至るまで、解決の糸口になると思います。
     
生きとし生けるものは、全て関係の中に生きています。人は、関係の中で元気にもなり病気にもなります。社会を変える、自分を変えるとは、関係の結び方を変えることだと思います。その鍵は、決して決めつけることなく、からだ全体で「きこう」とすること、無意識層と意識層をいかにつなぐかにあると思います。
     
精神分析学や深層心理学による無意識層の探求は、ともすれば病理学的探究になりがちです。一方、武道や芸術を通して「道」を求める人々は、理想を高く遠く置くために、その人の幼児期の生い立ちの中で形成された思い込みや決めつけについては、あまり注意を払わないように思います。
     
これからの時代には、分析することや部分を寄せ集めることではなく、全体を包括的にとらえること、無意識層の病理的側面にも神秘的側面にも精通することが求められています。新しい時代の医療の役割は、病気の治療にとどまらず、自己実現、潜在能力の開発へと発展するものと思っています。私は、柔道整復師という仕事を通して、新しい医療の実現を果たしたいと願っています。
     
<< 熊野に生きる >>
       
私の住む土地は、伊勢に七度、熊野に三度と古い歌謡にも歌われている観光地(光を見る地)です。私達が観光に出かけるのは、日常の暮らしを離れて自己を振り返り、心身の蘇りを図る為です。これからの観光は、自らがからだを動かし体験することによって、心身の健康を増進していく形態になるでしょう。
学校卒業後は、接骨院だけでなく、熊野の自然、風土、歴史環境を活かし、武道(撫道)と音楽活動、自己開発のための心理療法を基盤とした健康道場を建設しようと思っています。(*5)
      
<< 幸せは道の上に >>
     
受験勉強中は、合格通知が届いたらその後は入学式の間まで、少しはゆっくりしようと思っていました。ところが実際は、試験が全て終わった日も、合格通知が届いた日にも、以前と同じように子供たちの遊ぶそばで勉強していました。一つの峠を越えてみると、そこにはさらに高い山々の連峰が広がっていたからです。
      
海の見える山の中の一軒家の暮らしから、都会の雑踏の中での暮らしがもうすぐ始まります。大きな生命の流れを感じます。その生命の流れは、常に激しくかつおおらかに流れ続けています。ある時は、自分がその流れの中の小魚のように感じることがあり、またあるときは、自分もその流れに溶け込んだ水流のように感じたりします。
       
幸せは、何かに到達したときにではなく、求め続ける道の途上にあると感じています。
    
しあわせであれ、すべてのいきとしいけるものたちよ (祈り)
       
 (*1 当時は関西より西に学校がなくて、倍率が高かったです。)
 (*2 今は那智勝浦町市野々で NPO熊野みんなの家として活動中です)
 (*3 当時は無意識層という表現しか思いつきませんでした)
 (*4 理論は道具だと思います。)
 (*5 接骨院開業後は、子育てや親送りをしました。現在、通信制大学に通っていて、卒業後は、また新しい展開をします。)
  
 以上、21年前の文章です。