サムエ宗論 サムイェーの宗論

実践チベット仏教入門 クンチョック・シタル ソナム・ギャルツェン・ゴンタ 齋藤保高 著 春秋社発行 よりの引用です。
   
< チベット仏教では、瞑想には必ず対象が必要であると考えています。瞑想の対象は、本尊や曼荼羅のように具体的である場合と、空性や菩提心といった抽象概念の場合とがあります。実際の修行に際しては、心を集中させる対象として、仏像や仏画などを用いるとよいでしょう。
    
 瞑想の対象が必要であるということは、瞑想中に無念無想(何も思わない状態)であってはならないことを意味します。そのような不思不観の瞑想は、8世紀末の「サムイェーの宗論」以来、チベット仏教では厳しく戒められているのです。>(151〜152頁)
    
< また、瞑想の対象を正しく設定すべきである点からも、心地よい自由な空想に耽ったり、神秘的な幻覚を何らかの境地と勘違いして自己満足するなど、およそ仏教の瞑想とは無縁のものといえます。>(152頁)
    
< チベット仏教では、瞑想を二種類に大別しています。第一は、一つの対象に心を集中させる瞑想で、これを「止行」といいます。第二は、分析的に観察を行う瞑想で、これを「観行」といいます。実際の修行では、一座の中で止行と観行の両方を修する場合が一般的です。>(152頁)
     
< 「サムイェーの宗論」
 ティソン・テツェン王(742〜797)が、チベットへ仏教を本格的に導入して間もなくの頃から、インド伝来の大乗仏教と中国系の禅宗との間で、双方の僧侶や信者たちが、思想面、および修行の方法に関して対立するようになった。
 インド仏教哲学の巨匠シャーンタラクシタの弟子カマラシーラ(蓮華戒)は、サムイェー僧院において中国禅の摩訶衍和尚と論争し、主に1.座禅のみを修すれば、六波羅蜜の一々を修行する必要はないとしたこと、2.禅定中は不思不観を徹底すべきとしたこと―の二点を取りあげて、摩訶衍説の非を糺した。その結果、ティソン・テツェン王の裁定により、以後チベットではインド伝来の大乗仏教を正統とすることに決したという。>(274〜275頁)
    
 日本人に瞑想といえば、日本の仏教は、中国を経て伝来した歴史的経過もあってか、「無念無想」を思い浮かべる人が多いです。
 
 またビパッサナ瞑想を紹介するホームページも、インターネットを検索すれば多く見られるのですが、その内容を読んでみると、やはり禅の影響もあってか、禅的な解釈で説明しているページ、つまり無念無想を理想の境地と指導しているページも多くみられます。
 あるいは実際の内容としては「止行」の内容なのに、「観行」と説明しているページもあったりします。
 
 いきなり瞑想やら止観瞑想、ヴィパッサナ瞑想を行っても、なかなか望むような状態にはなれないように思います。やはり、六波羅蜜の修行(特に三輪清浄の布施)は必要だろうし、更にそれ以前に発菩提心が必須と私は思っています。