U理論と布施行そして無念無想

チベット仏教ゲルグ派の高僧で現在ダラムサラのネチュン僧院で教鞭をとっておられるゲシェー・ロサン・ケンラプ師は、次のように語っています。
 
<「瞑想」を行じる際に、断ち切るべき障害となるものが五つあります。
 
「懈怠(けだい)」(怠慢になること)
「失念」(瞑想の対象を失うこと)
「昏沈(こんちん)」「(心が沈み込み散漫になること)と「掉挙(じょうこ)」(心が昂ぶること)
心が「昏沈」「掉挙」していることを知りながら、しかるべき対処法をとらないこと
逆に必要もないのに対処法をとり続けること >
 
 <「失念」瞑想の対象を失うこと>と言われても、瞑想実践の経験のない人は、聞き流してしまいます。
 
 そこで、「実践 チベット仏教入門」クンチョック・シタル ソナム・ギャルツェン・ゴンタ 齋藤保高著 春秋社 を紐解いてみましょう。151頁に
 
< チベット仏教では、瞑想には必ず対象が必要であると考えています。瞑想の対象は、本尊や曼荼羅のように具体的である場合と、空性や菩提心といった抽象的概念の場合とがあります。実際の修業に際しては、心を集中させる対象として、仏像や仏画などを用いるといいでしょう。
 
 瞑想の対象が必要であるということは、瞑想中に無念無想(何も思わない状態)であってはならないことを意味します。そのような不思不観の瞑想は、8世紀末の「サムイェーの宗論」以来、チベット仏教では厳しく戒められているのです。
 
 また、瞑想の対象を正しく設定すべきである点からも、心地よい自由な空想に耽ったり、神秘的な幻覚を何らかの境地と勘違いして自己満足するなど、およそ仏教の瞑想とは無縁のものといえます。
 
 チベット仏教では、瞑想を二種類に大別しています。第一は、一つの対象に心を集中させる瞑想で、これを「止行」といいます。第二は、分析的に観察を行う瞑想で、これを「観行」といいます。実際の修業では、一座の中で止行と観行の両方を修する場合が一般的です。>

 またサムイェーの宗論については、
<ティソン・デツェン王(742〜797)が、チベットへ仏教を本格的に導入して間もなくのころから、インド伝来の大乗仏教と中国系の禅宗との間で、双方の僧侶や信者たちが、思想面、および修業の方法に関して対立するようになった。
 
インド仏教哲学の巨匠シャーンタラクシタの弟子カラマシーラは、サムイェー僧院において中国禅の摩訶衍和尚と論争し、主に、1.座禅のみを修すれば、六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の一々を修業する必要はないとしたこと、 2.禅定中は不思不観を徹底すべきとしたこと―の二点を取り上げて、摩訶衍説の非を糺した。その結果、ティソン・テツェン王の裁定により、以後チベットではインド伝来の大乗仏教を正統とすることに決したという。

この間の事情は、カマラシーラの「修習次第」、および中国禅の「頓悟大乗正理決」などに詳しく述べられているが、学問的には不明な点も多い。>(274頁)とあります。

 不思不観の現在における論争については、難解な言葉による有意義な論争は、学者さんに任せておくこととして、無念無想を目指すことが、実際の人生の課題解決に具体的に役立つのならば、それを採用し、役立たないのなら、採用しなければいいと思います。瞑想実践すれば明らかなことです。
 
 日常生活の中では、確かに考えすぎることでかえって迷いが深くなることがあります。
諺にも、「下手の考え休むに似たり」「下手な考え休むに如かず」といったりします。
 
 また意馬心猿という言葉もあります。意は暴れ狂う馬のごとし、心は酔っぱらった猿のごとしと。そういった意味で、無邪念無邪想という意味での無念無想はあるでしょう。
 
 それは、瞑想実践のウォーミングアップみたいなものです。

 原始仏典では、瞑想のことを念処といっているようです。
 念処経では、四念処といって、「身、受、心、法」を瞑想の対象にします。
 このうち、身体、呼吸を瞑想の対象としたとき、意馬心猿の心が静まり、いわゆる無念無想の状態になることがありますが、受、心、法においてはありません。
  
 戯論は戯論者に任せておきましょう。
 
 
 
 瞑想が生活化すると、意識が変わり、認知が変わり、対象への関わり方が違ってきます。その具体的変化や日常での実践を、よく解説しているのが「U理論 ピーター・センゲ著 英治出版」です。

意識の領域構造を変容させる(43頁)

 リーダーシップの原点は個人、集団双方の内面世界を変容させることだ。(略)
 これまでの研究からすれば、性質の違い、すなわち意識の領域構造の違いを生み出すスタンスや立ち位置は四つに分類できる。
 
 その四つとは、
(1)私の中の私―習慣的なものの見方、考え方でものごとを認識する。
(2)それの中の私―感覚や思考が大きく開かれた状況でものごとを認識する。
(3)あなたの中の私―開かれた心(ハート)で同調し感じる。  
(4)今の中の私―私という存在の源(ソース)から理解する、すなわち、開かれた意志(ウイル)で注意を向ける。
この四つの領域構造では意識と意図が生まれてくる場所が異なる。(1)から(4)はそれぞれ、習慣、開かれた思考(マインド)、開かれた心(ハート)、開かれた意志(ウイル)から生まれている。(略)
 
 その違いを見るために、「聞く」という行為を例にとってみよう。(略)

「ああ、そのことならもうわかっているさ」
 俗にダウンローディングする聞き方と呼ばれる。習慣的な判断が正しいことを確認する聞き方だ。(略)

「あ、あれを見て!」
 このタイプの聞き方は対象や事実に着目した聞き方だ。事実や、今までの知識と合致しない新しい情報に注意を向ける。習慣的な判断を命じる「評価・判断の声」から離れ、目の前のデータに注意を向けて判断する。すでに知っている知識とは違うその事実に関心が向いている。(略)
 
「うん、そうだね。きみの気持、すごくよくわかるよ!」
 三番目の聞き方は、より深い、共感的傾聴だ。(略)最初の二つの聞き方は自分自身の精神・認知構造の中で聞いているが、共感する聞き方では、認識方法がシフトする。モノや数字、事実といった対象を客観視する見方から、一つの生命体、生体、自己の物語として聞くようになる。(略)

「今経験していることをなんと言っていいのか分からない。私の存在そのものがスローモーションのようだ。静かで確かなほんとうの自己になった気分だ。自分を超える大きな存在とつながっている感じがする」

 こんな言葉で表現されるのが第四の聞き方だ。このタイプの聞き方によって、現在の領域を超えて、何かが出現しようとしているより深いレベルの領域につながっていく。(略)もはや外側にある何かを探しはしない。もう目の前の誰かに共感するわけでもない。
 
 
 「U理論」は、発菩提心とか六波羅蜜、布施行という言葉にあまり縁がなくて、ただ経営学の本として読む人には、とても難解と感じる場合があるようです。