再び出現する未来 瞑想・縁起の法・公理系・創造

再び 出現する未来 瞑想・縁起の法・公理系・創造
 
 ゴータマ・シッタルダ釈尊の説いたことのエッセンスはなんでしょう?
     
 「苦の生滅」について語ったのだと思います。
      
 「一切は、縁起の法に従って生滅すること」を説いたのだと思います。
      
 「苦しみもまた縁起の法に従って生滅する」ことを説いたのだと思います。
      
 「一切は縁起の法に従って生滅する」ということを体感するために、「止観瞑想」を教えたのだと思います。
     
 今数えきれない程の、経典があり、宗派があるのは、「縁起の法」という基礎理論を、各土着宗教が取り入れた結果だと思います。
     
「縁起の法」だけを取り入れて、拡大解釈すれば、「何でもあり」の教えになるでしょう。
     
実際、同じ仏教と名乗りつつ、その内容は千差万別です。
     
「すべてが相対的であり、何でもあり」と語ったのではないことは、原始仏典を見れば明らかです。釈尊は、池に石を投げいれれば、沈むといいました。
     
 「何でもあり」の迷路に落ち込まない手立てとして、数学でいうところの「公理系」があるのですが、人間はそれほど「論理的」でもなかったりします。
     
プラグマティズム」は、ともすれば「多数決」になりがちです。
     
 「止観瞑想」「シャマタ瞑想とヴィパッサナ瞑想」により、縁起の法を体感し、特に、チベット仏教、中観帰謬論証派でいうところの、「分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説けせつ)されたものとして成立する」(チベットの般若心経 春秋社 48頁)という縁起を体感し、あるいは言語学でいう能記と所記の結びつきは、「恣意的」であると体感し、「過去の囚われ」から脱し(恣意的とはいえその結合力・業の力は強いですが)、未来は、私たち一人一人の創造性、協働性に基づいて生起するという見方(未来の縁起の法)に立ちたいものです。
       
 過去はどんなに暗くとも、夢が今と未来を拓くのでしょう。