ともかく 呼吸を観つめましょう

k1s2008-01-02

普通私達は、起きて行動しているとき、
自分の顕在意識でもって、自由意志でもって、
行動を決定していると思っているのではなかろうか
 
ところが意識的に、自分の行動や感情、思考の生滅を
つぶさに観察すると
つまり、ビパッサナー・ヴィパッサナー瞑想をすると
多くの行動が、無意識的になされていることに気付く
 
生滅を捉えようとしても、捉えようが無く
顕在意識だけでは「ない」ということにだけは気付く
 
アフォーダンスに関して述べられていることが、実感する
環境と一体となって、行動が生滅し
環境に組み込まれて、行動が生滅していると
 
もっともっと緻密に生滅を捉えようとすると、すり抜けてしまう
 
イラスト、スケッチ、ボタニカルアートなどの細密画のちがいをそこで思う
 
同じ絵とはいえ、絵を描くとはいえ、一枚一枚、目的が違うだろう
メンバー的にちがい、クラス的に一致し、
クラス的にちがい、メタクラス的に一致しという風になっているだろう
 
どこまで細密に描くか、どこまで細密に瞑想するかは
それぞれの人の目的によるだろう
 
意識、無意識と名詞的に捉え、対立させると
泥沼に入っていく
葉っぱには、必ず表と裏があり
表と裏は対立などしてなくて
全体として、太陽に向けるか、月に向けるかのちがいはある
 
全体として、どちらを向くか、ということが
見失った瞑想もあるように思う 
いわゆる「魔境」かな
 
天台小止観の序の第一行に
 
諸の悪は作すことなかれ 諸の善は奉行せよ
自らその意を浄うする これ諸仏の教なり
 
とある
 
何を以って悪と言い、善と言うか、という声も聞こえてくるが
その声にも少なくとも、2種類あるように思う
 
先ずは、基本に戻り
呼吸を観つめることにしましょう