内面は何処にある? 写像論 記号論 笑う門には福来る?

さすがはお正月
とあるバス停で、このような田舎では見かけないような
都会風のかっこよい服装をした若者が居た
 
舞台からそのまま降りてきたようなスタイルなのだが
姿勢が猫背 左右の線も(だらしなく)曲線を描いている
本当の俳優さんなら、姿勢もいいのだろうけど、と思った
 (あくまで、私の偏見です)

こういうときは、外面はかっこいいが、
(推測される)内面はかっこよくないとでもいうのだろうか
 
(ここからが本題)
私達は、ごく普通に、外面とか内面という言葉を使う
そして、そういった外面とか内面が実在するかのように考える
 
ところで、内面って何処にあるのだろう?
 
さっきは、服装を外面、姿勢を内面と(仮に)捉えたけれど
姿勢だって、外に現れた表情だ
 
服装や姿勢から、その人の内面を憶測するのは偏見で
実際その人に何かを語ってもらうことにしたとする
 
その語られた内容が、内面というかもしれないが
言葉だって、例え、独白であっても、外に具体的に現れた音、外面だと思う

内面、あるいはこころってどこにあるのだろう?

 
そこで
言葉になる以前の、言葉にならないあるものが、内面だと考える人が居る
  
ともかく、言葉にならない何かがあって、それを言葉にするというのが
写像論というらしい
 
言葉にならない何かがあったり、
あるいは言葉になりはするが、そのまま語ったり、行動することなく
内面と外面は対立することがある、と捉える人も居る
 
そういう捉え方は、最初から、内面と外面が、実在的にあると想定しているから
そういう捉え方になると思う
 
別にそれは間違いだ、とはいうつもりはない
それで、都合がよければ、そうすればいいと思う
 
自分にとっては、内面と外面があって、対立するという捉え方は
都合のいい捉え方ではない
それだけのこと
 
内面とか外面とかいう言葉があるので
それに対応する何かが、実体として、本質として、存在する
と捉えている人は、多数居ると思う
 
そして、そういった捉えかたで苦しんでいる人も、同じく多数居ると思う
 
ここ数日考えていたことは

シャマタ(止)瞑想はハードの性能を上げること
ヴィパッサナー(観)は、ソフトをバージョンアップすること
ではないかということ
 
ソフトは、物語、とか、神話とか、あるいは倫理とか言われていて
少し前の時代の先輩たちは、「神は死んだ」と宣言し
身の回りに居る人たちは「理性だけではだめだ」といいつつ
物語を見出せていない
 
じゃ、自分はどうなのだというと
熊野という環境がいいのか
新しくはなく、古いソフトをあっちこっち引っ張り出して、それで動けている