卵を立てる 2 「立春卵」と「出現する未来」

 私達は、今の状況を判断し、未来を予測し、行動を決定するときに、「過去を参照」します。
 科学的理論も、迷信も、風習も、人生訓もそうやって生まれます。
  
 もっと具体的なことでいえば、「転移」といわれる行動も、「投影」といわれる行動も、「自己スキーマ」「事象スキーマ」といわれることも、「思い込み」も、「過去を参照する」ことから生まれます。
  
「卵は立つと思いますか?」と問いかけられたとき、やはり、自分の過去を参照することでしょう。
  
「卵が立っているのを見たことがない。だから立たない。」と判断する人もいれば、
「卵が立つのを見たことがある。しかし、私にはできない。」と判断する人もいれば、
「生卵を立てたことがある。しかし、ゆで卵は立たないと聞いている。」と判断する人もいます。
  
 最初からできないと結論付けている人は、立てようとしません、ですから、人生訓も自分の下した判断も変わりません。
  
 野口三千三先生は、「立つと思います」と手を挙げた生徒さんに、「ではやってみてください」といいました。このような場合、試みようとしないで、立つのか立たないのかの議論は不毛です。
 
 過去を参照することは間違いではないでしょう。私達の思考や行動決定の仕組みの中に過去を参照するということは組み込まれています。
 
 ものごとの生滅には、原因があることでしょう。
 
 しかし、私達は、ものごとの原因のすべてをとらえきれるわけではないでしょう。また、因果関係ではなく、相関関係であることをも、原因としてしまったりします。
 例えば、胃がんの原因は一体なんなのでしょう?
 
 物理的な説明でうまく説明できる事象もあれば、物理的な説明では多くのことが抜け落ちてしまう事象もあるでしょう。
 
 ベイトソンの言うように、道端に落ちている空き缶を蹴飛ばせば、空き缶は物理法則に従ってその位置を変えるでしょうが、道端にいる犬を蹴飛ばした時、その後の位置関係は、物理法則だけでは説明しきれません。警官に手を握られた時と、恋人に手を握られた時では、その反応は違います。
 
 
 卵を立てるという行為は、卵と指先に意識が集中され、そのことによって、止瞑想となります。
 
 うまく立たなくてそれでも続けていると、色々な妄念も湧いてきます。それでも続けていると、U理論のオットー・シャーマーがいうところの「留保」(つまり、思考の分析的な習慣から自分自身を切り離すこと)の状態になります。
 
 さらに、「卵は立つと思いますか?」という問いかけの文脈を感じながら、幾度も卵を立て続けていると、出現する未来に書かれているようなことが起こります。
 
< さらに、保留から見えるものの背後にある根源的な生成過程へと意識を転換する。そうすると、見る側とみられる側の境界がなくなり深い一体感が得られるだけでなく、変化の感覚が研ぎ澄まされ、現実が開かれ、自分もその出現する現実の一部となる。つまり、出現する未来は、自分次第で決まるのだ。このような主体と客体の二元論を超える能力を磨くのが仏教の瞑想法である。(「出現する未来」ピーター・センゲ他著 講談社 5頁)>

 私達の現実と未来は、いつも、私たち自身が描く夢や希望、そして創造性が大きく関わっていることでしょう。
 
「卵は立つと思いますか?」