卵を立てる 現量

k1s2012-01-31

2月12日に、NPO熊野みんなの家で行う瞑想体験講座の内容について考えていて、「卵を立てる」という言葉が浮かんできました。
   
生卵であれ、ゆで卵であれ、つるつるした平面の上に、コロンブスのように一部を割ることなくそのまま「卵を立てる」、卵は立つ、ということを知ったのは、約40年前。東京で、竹内演劇教室に通っていた時のことです。教室では直接、野口三千三先生から野口体操と講義を受けました。
      
以来、日常の中で、卵を立て続けてきました。
       
野口三千三先生著の「原初生命体としての人間」の中に、卵を立てる話が書かれています。
      
<ふつうの精神的、身体的能力をもっているものならば、誰がやっても、いつでも、どこでも卵を立てることができるはずである。最初は、両手で長い時間かけても、なかなか立てることができなかったものが、片手でも立てられるし、さらには逆立ちさせることもできるようになる。昨夜立てたものが今朝になっても悠然と立ちつづけているのを見たときには、一種の感激さえ覚えるであろう>
         
日本で、書籍文章として卵を立てる話を最初に書いたのは、雪の結晶で有名な中谷宇吉郎氏のようです。岩波書店の随筆集の中に、「立春の卵」という題で書かれています。
       
また、津野正朗氏が、<「立春の卵」と「コロンブスの卵」>という題で、かなり詳しく卵や卵を立てることに関する内容の本を書かれているようですが、入手は難しそうです。
       
中谷宇吉郎氏の文章から抜粋します。
         
< この卵の立つ話は、考えようによっては、世界の歴史の上でもめったにない面白い事件ともいえるのである。というのは、昔から「コロンブスの卵」という諺があるくらいで、卵は立たないものと決まっていた。そして、それを疑う人は誰もいなかった。ところが、この二月の立春の日に方々で卵を立ててみたところが、それがみな立ったのである。色々な新聞がテーブルの上に卵の立った写真を載せていたことは、諸君も覚えていることだろう。
        
話の起こりは中国からである。
        
中国の現在ニューヨークの総領事をしている張という人が、前に中国の古い本を調べていたら、立春の日には卵が立つ、ということが書いてあるのを発見した。その話を聞いた中国の国民党の宣伝部に勤めている魏という人が、一昨年の立春の日に、重慶アメリカの新聞記者立ち会いの上でこの実験をしたら、卵は見事に立ったそうである。
      
そのアメリカの新聞記者は、さっそく本国へ通信をしたのであろうが、大戦中のことで、その話は、たいした問題にもならずに済んだ。
     
ところがことしの二月、その魏さんが上海の駐在員になっていた。前に重慶での実験に立ちあったアメリカの記者もちょうど上海にいたので、二人でいま一度この実験をしてみることになった。今度は大がかりで各新聞社の記者たち、カメラマンなど大勢を招待して、その前で実験をすることにした。それが評判になって、ラジオの方ではその実況放送をするという騒ぎになった。
      
実験は大成功で、卵は見事に立った。テーブルの上に立てた卵は、つぎの朝まで倒れずに立っていたし、タイプライターの上にも立てることができた。つぎの日の英字新聞は、第一面にこの記事を載せて「歴史的な実験に成功」という大見出しで書き立てた。>
      
<問題は、そういうなんでも無いことに、世界中の人間がコロンブス以前の時代から今日まで、どうして気がつかなかったかという点にある。それは、五分間くらい費やして卵を立ててみようとした人が、いままで誰もいなかったからである。実際のところ、卵を立てる実験は、かなり気を落ち着けて、必ず立つものと確信して、何度も何度も繰り返してやっているうちに、うまく立つものである。立つかなと思ってちょっとやってみるくらいではなかなか立たない。
      
そういう意味では、中国の昔の本にあった立春の日に卵が立つという話は、かなり面白い話である。卵のような手近なものに、こういう例があるのだから、私たちの周りには、まだ誰も気のつかないことが沢山あるであろう。学校で習う物象で全部わかってしまったと思うことが一番いけないことである。>
       
このエッセイは、戦後に書かれ、小学校でテキストにも使われたようです。
        
中国の古書に書かれてあり、テレビやラジオのニュースにもなり、戦後に科学者の中谷宇吉郎氏が書き、学校のテキストにもなり、大学教授の野口三千三が書き、津野正朗氏も書いたことなのですが、いまも、卵は立たないと思っている人が多くいるようです。
      
あるいは、立つことを見たり聞いたりしていても、生卵は立つけど茹で卵は立たないと思っている人や、私にはできないと思っている人も多いようです。
        
これまで、何度か実際に卵を立てることを講座の中で行ってきましたが、全員できました。茹で卵も立ちます。
       
 仏教用語に「現量」ということばがありますが、実際に味わってみるのが一番です。
    
 講座の中での風景ですが、周りの人が、卵を立てることができているのに、自分だけ立たないと、焦ったりします。それでも、諦めずにやっていると立ちます。
     
大切なことは、卵が立つと知ってからです。

「卵は立つだろうか?」という問いかけが、どのレベルから発せられ、どのレベルで答えるかが大切と思います。
 
 卵を立てるという試みが、どのような文脈の中で行われているのかを理解することだと思います。
   
 人が知らないことを知りたい、出来ないことを出来るようになりたい、と思って卵を立てた人は、知った後、出来るようになった後、それで問いかけが止まってしまい、問いかけのレベルも変わらないように思います。
     
 二回目からの「卵は立つだろうか?」という問いかけに対して、「私知っているもんね。私できるもんね。」でおしまいになりがちです。
U理論の中にある「ダウンローディング型の聞き方、問い方です。
      
「原初生命体としての人間」からの引用です。
       
 < 人間の一生における可能性のすべての種・芽は、「現在の自分の中に存在する」のだと考えて、今自分自身の中にもっていながら、自分をふくめて誰も気づいていない無限の変化発展の可能性を、自分自身のからだの動きを手がかりとして、それを発見して育て、また、それがどんなものであるかさえ認識の網で救うことのできないものまでも、そのままで発達させることができると考えるのである。(p.12)>
     
 「そもそも<立つ>とはどういうことだろう。もし、鶏の卵がほぼ完全な球体だったら、何を以て立つというのだろう。」
    
 こういう問いかけから、人間の言葉の働きを探るきっかけとなったりします。
       
 卵は立たないと思い込んでいた自分を振り返ることによって、自分の様々なスキーマのことに思い至ったりします。
       
 卵を立てるということも、聞き方によって、止の瞑想となり、観の瞑想となります。