瞑想と洗脳と魔境と

スキーマという言葉があります。心理学や経営学の分野では、次のような意味を持ちます。
  
< さまざまな物事に対して「その人が無意識のうちにしてしまう、ある決まったものの見方、考え方」を指す。スキーマは、ステレオタイプや偏見も含む、幅広い概念である。
例えば、バスに乗ったとき、運転手が女性だと、一瞬はっとして「女性が運転するのだ」と思うことがある。これは「バスの運転手は男性」というスキーマが、知らず知らずのうちに働くからだ。>(kotobankより)
   
< 人は行動する際、多くは過去の経験から生まれた、基本的な知識のまとまりをもとに、予測対応しようとする。
 それら、外界からの情報を処理するために使われる、知識のまとまり、 構え mental setを総称してスキーマ(またはシェーマ)という。>
   
< 過去の経験に基づいて体制化された知識構造。
対象の属性や事象に関する情報を処理するとき、これを認識の枠組みとして用いる。
これが人や社会的事象に関わるときには「社会的スキーマ」と呼ぶ。
スキーマは社会的事象の認識において重要な役割を果たす(複雑な情報を効率的にする)が、一方で判断の誤り、偏りといった認知的弊害が生じる場合もある。>(仔猫の遊び場より)
   
また、社会的認知ということについて、ウィキペディアには、
   
< 社会的認知(Social cognition)は人が社会からの情報を認知する過程を言う。

社会的認知はスキーマに基づいている。スキーマとは過去の経験や外界についての構造化された知識である。ある物事についてのスキーマが形成されるとその物事の認知にスキーマからの影響が認められるようになる。

社会に関するスキーマは社会的スキーマと呼ばれ、テイラーとクロッカーによって人格特性などについて規定する人スキーマ、自己の特性について規定する自己スキーマ、年齢や人種、職業などに基づく役割を規定する役割スキーマ、ある事態に対する人間の行動を規定する事象スキーマの四つに分類された。
これら社会的スキーマは人間が社会的な状況を認知する際に無意識的に作用し、認知の際の分析にとってより容易な心的近道となる。>
とあります。
   
似た意味を持つ言葉に、スクリプト(台本)、フレーム(枠組み)、プロトタイプ(原型)という言葉があります。
 
 
 「諸行無常」で、世の中のものごとは、常に変化しています。テーブルの上の林檎も、昨日と今日では同じではありません。この世に同じものごとは何一つないといっていいでしょう。
 
 しかし、出会う事象ごとに、「これは一体なんだろう?」と考えていては、身動きが取れません。それで私達は、事象に対して、般化や弁別を繰り返し、物事を分類し、名前を与え、少々の違いは無視し型にはめます。
 
 そうやって出来上がるのが、言葉であり概念であり、プロトタイプでありフレームであり、スクリプトでありスキーマです。自己像、人間像、世界像といってもいいかもしれません。
 
 それらは、情報を効率的に処理することに役立つと同時に、判断の誤りを生むことにつながります。
 
 
Keyword Project+Psychologyというサイトには
  
< A.ベックは、人間は過去の経験や学習の積み重ねによって、物事や状況を解釈する時の基本的な枠組みである『認知的スキーマ』が形成されると考え、この認知的スキーマが非適応的な思考パターンを作り出すことがあるとした。『認知の歪み』による精神症状の発症には、認知的スキーマの偏った思考パターンが関係しているのであり、このネガティブな思考パターンを自己観察で発見するところから認知療法は始まる。
 
『認知の歪み』というのは、特定の意味づけがなされていない『客観的な状況・現実』に対して、自分の存在(能力)を否定するような考え方をしたり、自分に対する他人の言動を悲観的に解釈してしまったりすることであり、この認知の歪みを肯定的に修正することで気分・感情の状態が良くなってくるのである。
   
物事が思い通りに上手くいかなかったり、人間関係でトラブルが起こったり、自分を批判されるような状況を経験すると、人間は自分自身の存在価値や能力を否定する『認知の歪み』を持ちやすくなる。だが、その発症状況や行動パターンを冷静に再検討することで、『認知の歪みの非現実性』に気づいて改善のきっかけを掴みやすくなるのである。
   
ある状況や人間関係において自然に湧き上がってくる思考を『自動思考』というが、自動思考の中には『完全主義思考(全か無か思考)・すべき思考・過度の一般化・マイナス化思考・過大評価と過小評価・良い意味のフィルタリング・ネガティブなラベリング・結論の飛躍・読心術(相手の心の先読み)』などの様々な認知の歪みがあり、これらを現実的な検証を通して修正していくのが認知療法である。>とありました。
   
瞑想は、そういったスキーマやフレームの外に出る試みです。
 
 不適切な判断から出るために、あるいはもっと適切な対応を求めて、スキーマからでるのですが、それまでのスキーマから離れたときは、ある意味危険な状態でもあります。ちょうど、羽化するときの蝶々に例えられます。洗脳されやすい状態でもあるからです。
 
 菩提心に基づかない瞑想、空性の理解を欠いた瞑想は、魔境におちいりやすくなります。