センサリー・アウェアネスのセミナーの中でよく使われた鍵になることばのひとつが「バランス blance 」だったと思います。
バランスという言葉を辞書的に翻訳すれば、そのままバランスとして日本語になっていますが、つりあい、平衡、均衡、調和、安定した状態などになります。
どのことば・記号であれ、本来記号と記号の表そうとする意味との関係は、「恣意的」と昨日書きました。
厳密な定義、記号とその表す意味との関係が緩やかでない科学の領域においても、平衡、定常状態、秩序などの意味をめぐって議論があるようです。
例えば福岡伸一氏の「動的平衡」ということばづかいに対して、批判が上がったりしています。まして、自分のからだ、心、環境との関係を探ることにおいては、自分の辞書は自分で創り、個々の場面で、他の人とすり合わせながら使うのが望ましいのでしょう。
フライトを終え、整備の為に格納庫に入った飛行機を見て、ある人はバランスがとれているというでしょう。
飛行場を飛び立ち、もう安全ベルトを外してもいいですよというアナウンスを聞いて、ああ今飛行機は平衡状態にある、と思う人もいるでしょう。
外から引っ張られるロープから離れ、気流に乗ったグライダーを見て、ある人はバランスがとれているというでしょう。
あるいは、もし戦闘機が敵機に打たれ、火を噴き、地面に墜落したとしても、その過程は平衡状態に向かったのだと、ある人はいうかもしれません。
野口体操でよくやった「生卵を立てる」という遊びを久しぶりにしてみました。
卵には意志が無いので、物理的には私が「立てる」のですが
物語的には
立つ瞬間、自分が卵を立たせているのではなく、
卵が立つ位置を探していたら、卵がふっと自ら立つような感覚になりました。
あるいは実際そうなのかもしれません。
自分が予測している「まっすぐ」とか、「重心の位置」とは違うところで立つことがよくあるからです。
「立つ」という言葉にしても、写真のような姿だけが「立つ」姿だ、バランスがとれているのだとは、今は思っていません。
ごろんと転がっていても、それはそれで立っているのであり、バランスの取れた姿だと私は思っています。
京都でのセンサリー・アウェアネスのセミナーに参加することによって、参加者それぞれに何かが変化したことでしょう。その変化が、各自の日常に戻った時、まわりに何らかの影響を与えたことでしょう。
と同時に、環境(まわり)からの影響で、その変化自体もまた変わったりするでしょう。
違いを感じるだけでなく、違いを生み出す違いを感じ、学ぶことが大切なのだと思います。