センサリー・アウェアネス 3 ダンス

もとより、「ことば」というものは、「ある体験」を表そうとしても表しがたいものですが、それでも言葉や文章にし、表そうとすることによって、体験にラベルを張ることができ、ある体験の「中味」を、垣間見させること、再構成や再現のきっかけを与えることができます。
 
私達のからだの中には、体験の詰まった実に実に沢山の引き出しがあり、引き出しにラベルを付けることによって、引き出しの中身を整理したり、取り出したりしやすくなります。
 
 そして、そのことばにも、「ことわり」を表すことば<ただの詞>と「あはれ」を表す<「あや」のあることば・詞>の二つがあると本居宣長が述べたことは、以前に紹介しました。(尼ヶ崎彬著 「花鳥の使」 勁草書房
 
 また、ソシュールが言うように、ことばとそのことばが表そうとする「中身・中味」の関係は、本来恣意的でありながら、人々の間で使用される過程の中で、ほぼ固定化されます。
 
 とはいえ、固定化の度合いは人それぞれで、各自が各自の中にことばの辞書をもっているように例えられます。ある人は、卓上辞書のような辞典をもっており、またある人は百科事典のような辞書をもっています。
 
 ことわりを表すただの詞、科学言語では、ことばその意味の関係は厳密に決められる傾向があり、日常でのことばや、芸術表現のあやのあることばは緩やかになる傾向があります。
 
 世間で一般的に使われていることばでは、自分の体験を表しようが無かったり、一般的に認められている中身との関係がしっくりいかない場合があったりします。
 
 そんなことばのひとつとして「脱力」ということばがありました。
 
 高校野球などを見ていますと、ピンチになった時、捕手がタイムをとり、マウンドのところへ行って投手に、動作と共に肩の力を抜くように指示していたりします。
 
「肩の力を抜こう」という表現をしたとして、この場合「肩」は肩だけでなく他の部分の筋肉や心理を象徴していると思います。「力を抜こう」という表現も、文字通り、肩の周りの筋肉を全部完全に脱力してしまえば、ボールは投げられないのだから、「リラックスしよう」「余計な力は抜こう」「適切な力を入れよう」という意味で使われていたりしているとおもいます。対になることばがあって、その対偶語として「力を抜く」という表現をしていたのだと思います。
 
 ところが、からだほぐしの世界、ボディワークの世界、心理の世界、スポーツの世界、武道の世界などで、「脱力」という漢字熟語となって、個々の文脈を離れて独立してしまい、独り歩きしているような感じを私は持ち続けていたのです。
 
脱力という言葉の意味を確かめることなく、また前後の文脈も無しに
 「完全な脱力ができることが素晴らしい。」「脱力が必要だ。」という風な考えがはびこってしまっていると。
 
 例えば、自然な立位の状態で、トレーナーの人が「全身の力を抜きましょう。脱力しましょう。」と指示したとします。実際にことば通り全身の力を抜くと、立っていられません。
 
 また歩いている人に対して、「もっと膝の力を抜いて」という指示をしたとします。
「文脈的」にはなんらかの意味のあることばでしょうが、生理学的にはよくわかりません。

 筋肉を動かす時、ある筋肉に「力を入れる」と、その拮抗筋は「力が抜けている」のが望ましいのです。力を入れることと抜くことは対立しているわけではありません。 
 
 トレーナーの人が、相手の上肢を肩の高さ辺りまで持ち上げ、そして急に前触れもなく離したりし、「ほらあなた力が抜けていないわよ」という場面があったりします。
 
 それが、できるできないをこだわらないことを標榜する「からだほぐしの教室」だったりするのです。

 私はできの悪い生徒だったので、それで余計「脱力」という言葉にこだわってきました。
 
 今回、センサリー・アウェアネスを味わって、長年のこだわりがほどけました。
 
 余分な力を抜く、適切な力を入れるという表現はまだ使うとして、「脱力」ということばは、蔵の奥の箱に入れてしまっておくことにしました。
 
 「脱力」ということばを使わなくても、その都度、リラックスする、任せる、預ける、放鬆など適切なことばを探すことにします。
 
 脱力できていなくとも、力が入ったままで、人はリラックスし、「任せる」こと「預ける」ことができるということを味わったのだから。
 
「任せる」だけでなく「任せられる」味わい。「任せることと任せられることが別々でなく、「任せていて、任されていて、任していなくて、任されていなくて」境があってない味わいでした。
 
 ブーバーのいう「我と汝」の関係がそのままダンスとなったような動き、あじわい。
 対人間関係だけでなく、世界とも、世界に身を預け、そして世界からも身を預けられている感覚。
 
 臨死体験のとき味わったあの感覚に似ています。
 これ以上の苦しみは味わったことが無いという時間の果てに
 世界に身を預けた時、世界の方からも預けられました。
 
 「劣等感」ということばも、こだわり続けてきたことばです。
 
 他人と自分を較べての劣等感ではなく、自分の理想と比べての劣等感。
 自分が理想とする自分、自分が理想とする他者、自分が理想とする社会、それと比べた時の現実。不安。いらだち。自分の思うようにならない苦しみ。
 
 どんなに努力しても、世界が自分の思う通りにならないことは分かってはいても、何かせずにはいられない自分。予測、準備。
 
 臨死体験で味わった
 任せ、任せられているという感覚を忘れていました。
 
 今回は、そんな切羽詰まった状況ではなく、道元禅師の見守るお寺の本堂で味わえました。