ブラインドウォークのことなど
センサリー・アウェアネスのセミナー二日目、午前のワークが終わる時、午後からブラインドウォークのワークを行うことを聞きました。
ブラインドウォークと聞いたとき、それだけで少し緊張感が生まれました。
以前書籍を読み、友達の体験を聞き、私の中に先入観があったからです。
二人一組になり、声を使うコミュニケーションは一切せず、手を繋いだり肩に置いたりして、目の不自由な人が歩いているように歩いてみるといったイメージです。
ところがセンサリー・アウェアネスでのブラインドウォークは、私の予想をはるかに超えたものでした。
企業研修でのウォークや福祉体験でのウォーク、心理学のセミナーでのウォークとは、名前は同じでも、内容は別のものだと思います。
「同じ、違う」といっても
人間は、「違い」を見出そうとすれば「違い」を見出せるし、「変わらないもの」を見出そうとすれば「変わらないもの」を見出せるのだと思います。
ブラインド・ウォークにも、技術・方法のレベル、理論のレベル、思想のレベルがあるでしょう。
その辺のことは、今は語りません。
センサリー・アウェアネスでのウォークでは、手を繋ぎません。眼を閉じる人は、独りで、自由に動きます。歩いてもいいし、這ってもいいし、じっと立っていてもいいのです。パートナーは、傍にいて、怪我をしないように、その人の判断で手を差し伸べます。
文学や芸術の表現技術として、レトリック、修辞法、文彩、あやがあります。
修辞学の中に、比喩があり、比喩の中に隠喩、メタファーがあります。
ブラインドウォークは、私の人生のメタファーでもありました。(これも隠喩?)
出来事Aのなかに、p,q,r,という内容があり
出来事Bの中に、q,r,sという内容がある時、q,rという共通点から、出来事Aから出来事Bが想起されたりします。
共通点があるからと言って、また自分自身のことだからと言って、誰もがその共通点を見いだせる訳ではありません。
見出すには、それこそアウェアネスが大切になってきます。
実際に始めてみると
目の前が見えないのに、いつもとは違うというだけで、不安感はなく
見えない世界を楽しんでいました。
新しい世界に踏み入った幼子のように。
あるいは初めて言葉を知った時のヘレンケラーのように?
足で探り、手で探り、光を感じ、肌で感じ。世界を感じ、自分を感じ。
今になって振り返ると、それはとても不思議な体験です。
今日は、ブラインドウォークを反芻していて、二度の臨死体験を想起しました。
耐えられる限界ぎりぎりまで、その「存在」を私は感じていなかったですが、倒れる瞬間二度とも私は抱きかかえられました。
私がウォーク中、一度もパートナーのKojiさんから、触れられたり、動きを止められることはありませんでした。しかし、実際に触れられていなくとも、支えられている感覚がずうとありました。
どこで手を差し伸べるのか、そういった指示もありませんでした。
それだけに、アウェアネスは深くなりました。