谷川の水をもとめてあえぎさまよう鹿のように

「自分の人生の究極のゴールや中間の節目(ミニゴール)は、今ここよりずっと先の未来にあるもの」と、そして同時に、「突然やってくるかもしれない臨終の時が、不本意ながら究極のゴールともなる」と、思い込んで生きてきました。

 「苦しみはいかにして生まれ、如何にして滅するか」をテーマに、仏教を学び、心理学を学び、言語学を学び、瞑想を学ぶ中で、要素論に対して全体論を学び、実在論に対して構成主義を学び、存在論に対して認識論を学び、センサリーアウェアネスを味わうなかで、
 
 「いまここ」が、いつも人生のゴールである、同時に、いつでもスタートである、と思うようになりました。
 
 人の苦しみは、その人が使う言語の時制と深く関わりがある、と思うようになりました。
 
 「本質的に、実体的に○○である。」と思っていたことが、差異のネットワークの中で構成されたもの、つまり「一切空」と思うようになりました。
 
しかし、人生のレストランへ行って、「ご注文はなんですか?」と尋ねられた時、「まだ、決めていない」とは言えても、「空を下さい。無を下さい。」とは言えません。

いままで、「仏教ご飯」が好物で、いつもそれを頼んでいて、隣の人が「聖書ライス」を食べていても、「ケチャップを使っているから嫌だ、ああいうものは一生食べることがないだろう」、と思っていたのが、ある日、自分の咀嚼の仕方の癖に気付き、咀嚼を変えることで、あるいは時節や季節が変わり、そのおいしさが分かったりするのかもしれません。

でも、うかうか暮らしていると、自分の胃袋のことも考えずに、あれこれいっぱい注文してしまったり、食べている最中に、もう食べ終わったことを考えてしまい、味わって食べていなかったりします。

 そんな時は、脇にあるコップの水を飲みます。
 
 先日頂いた「弱さと神の慈しみ」が、とても美味しい清涼な水となっています。