等価交換? スピリチュアルな交感

かつて、徳を積む努力をすれば、その積んだ徳の量に応じて、功徳が現れると、信じ思っていました。
 
確かに、徳を積むことは、人として当たり前の行為だとは思いますが
その量に応じて、功徳が現れる訳ではないと、今は思います。
 
そもそも、徳の「量」など、どうやってはかることができるのでしょう?


徳の量など量り様がないのではと言いつつ
時には、「人間が一生に味わう喜びの量と苦しみの量は、同じだそうです。」
という物語を採用したりします。

 子育てで悩んでいる人に、「今まで十分、喜びを味わってきたでしょう。いまはそれに見合った苦しみを味わう時期ではないでしょうか?」などと言ったりします。
 
< 孫悟空は手のつけられない暴れ者で、時々仏様から叱られるのですが、ある時仏様に言いました。「仏様はいつも偉そうなことを言っていますが、一瞬の内に地の果てまで飛んでいけますか。私は、この金斗雲に乗ってすぐにでも地の果てまで飛んで行けます。」と言い、飛んで行ってしまいました。悟空はすぐに地の果てに到着しました。地の果てには五本の柱が立っていました。悟空はその柱の中の一番高い真ん中の柱に「悟空参上」と書きました。仏様のもとに帰った悟空は、「どうだ、すごいだろう」と自慢をしました。すると仏様は手のひらを悟空の前に差し出しました。その手のひらの中指には「悟空参上」と悟空が書いたとおりの文字が書いてありました。>

確かに、人間同士を較べると、徳を積むとか、知識や智慧を得るという努力は、大変な行為だけれども、世界全体から頂いている功徳のことを思うと、掌の上の出来事と思います。


「徳」だけでなく、「ものごとの価値」はどのようにしてはかるのでしょう?
 
共同体社会を維持していく上で、ある時、「等価交換」というルールを設定し
その当事者が、納得の上、等価交換することは必要でしょう。
 
しかし、等価交換という言葉だけが独り歩きし、常識と化し
何事においても等価交換しなくては、という思いに凝り固まると
それは苦しみを生むと思います。
 
そもそも、等価交換ってどういうことでしょう?
「価値」って、どうやってはかり、決定するのでしょう?

( 子どもを授かった時、両手で抱いた時、無量寿・この世の至福を感じたじゃあないですか )
( それ以前に、初めて口づけをした時、やはり無量寿・至福を感じたじゃあないですか )