気づきの瞑想

センサリー・アウェアネスセミナー以後、AMAZONで「アウェアネス」「気づき」という言葉で検索していて、
 
「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」カンポン・トーブンヌム著 佼成出版社刊 を見つけて読みだした。
 
 著者はタイ人で、タイのバンコクの大学卒業後体育教師となったが、事故で全身不随となってしまった。その後、「気づき」の瞑想に出会うことによって、人生が変わっていく。
 苦しむ人から、苦しむを観る人となった。
 
 読んでみると、瞑想の止観の過程のうち、止(シャマタ)の過程がよくわかる。
 
 読みながら、書棚から「チベットの般若心経」を取り出して、同時に読んでいる。
 48頁に、「縁起には三層の意味がある。(中略)三番目の意味は、分別による名称の付与に依存して仮に設定(仮説毛説)されたものとして成立することだ。この三番目の意味こそ、最も深い縁起の解釈」と書かれている。
 
 カンポン・トーブンヌム氏の著作では、ビパッサナ瞑想を実践したことがある人ならよくわかるだろうけど、止の過程では、「思考」については、「あ、今思考した」と気付いたら、またからだの気付きに戻ることを徹底して行う。
 
 止を実践して、観察する力が身に付いたら、そこで思考が成立する過程を観察する。
 
 そこで、分別による名称の付与という縁起を知ることになる。これは、記号学でもあり、認知論でもある。
 
 「チベットの般若心経」の62頁には、
「彼の敵対行為を主な因として、私は<敵>という名札を貼ることも、彼は煩悩によって悪業を重ね、未来に大きな苦しみを体験しなければならないという思いから、<慈悲の対象>という名札を貼ることも、更には、彼の敵対行為のおかげで、忍辱の修業ができるというおもいから、<上師ラマにも等しい有り難い存在>という名札を貼ることもできる」という意味のことが書かれている。
 
 一回目読んだときには、この部分に感銘したが、よく考えてみると、今までとは別の名称を貼るには、今までのラベル<敵>という概念以外に<慈悲>や<忍辱>を既に知っていることが前提になる。
 
 話が急に飛ぶが、「所属できていない」という思いが、「劣等感」つまり苦しみになるということはよくわかる。そこで、「所属感を思い出してもらう」という心理治療がある。
 
 そのことについても、改めて考えてみた。
 「今まで生きてこられた」という事実を以って、所属感、いや実際に所属というものがあって、生きてこられたと思う。
 
 どなたから頂いたかはわからないが、母なのか、母に代わるなのか、哺乳瓶なのか、ともかく乳を与えてくれた人がいたから、何らかの共同体に所属していたから生きてこられた。
 
 母子関係が良かった人の所属感とよくなかった人の所属感はやっぱり違うと思う。
 
 だから、所属感を思い出す思い出し方も同じではないと思う。
 
 そう思ったとき、なぜか今日は、祖祖母のことをおもった。
 阪口よつ 明治10年5月17日うまれ。
 
 小さい頃、祖父母の家の隠居部屋で寝起きしていた。
 遊びに行って、よく甘露飴を頂いた。
 
 甘露、甘露。
 
 人間に、甘露の実体験、縁起の認識の実感、空観の体感、や慈悲の経験、忍辱の体験が大切なことは言うまでもない。