舞踏による空観の体験

 いまから三十数年前、高校を卒業後、浪人生となって、京都で生活しました。そこで、私は、桜沢如一による玄米自然食、著書「無双原理」「永遠の少年」を知り、部族やフリーク(ヒッピー)といわれる人々を知り、共同体という暮らし方を知りました。日本に暮らしていて、初めて「東洋思想」に出会った、と感激しました。(その後それが発展して、野口体操に繋がります。)
 東洋思想といってもおぼろげだったのですが、今まで常識としつつも馴染めなかった要素論や実在論、二元論とは違うものの見方があるのだ、ということを知りました。
 
 受験勉強の合間に旅していたのが、旅の合間に勉強するようになりました。ある時、「永遠の少年」を教えて頂いた人と旅に出ました。その人の旧知である四国の松山の近くの禅寺に泊ったときのことです。そこの禅師さんに問われました。「仏教が何を説いているか知っているかい?高校を卒業したのなら、倫理社会の授業で習ったはずだよ。」と。
 「仏教は、四聖諦八正道を説いている。」と教えて頂いたのですが、当時さほど仏教に興味を持っていなかったので、自分は何も知らないということだけを知りました。
 
 そのことがあってから、約4年後、増谷文雄氏の著作を通じて、原始仏教を知り、そこで再び四聖諦八正道という言葉に出会いました。同時に、三法印四法印という言葉も知りました。そして、徐々に、実在論ではないものごとの見方、空観を学ぶことになります。
ソシュール記号学や、レビストロースなどの構造主義を知るのはもっと後です。)
 
 三法印とは、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」をいいます。それに「一切皆苦」を入れると四聖諦になります。
 この「一切皆苦」という言葉がよくわかりませんでした。
 
 ものごころついて以来、私が抱いていた世界観は、「この世は競争社会だ」という世界観でした。「しかし、私はその競争には参加したくない。しなくてすむ世界に住みたい。住めるような自分になりたい。」と自己理想を持っていました。
 
 ですので、「確かにこの世の中には、競争から生まれる苦しみがいっぱいあるけれど、暮らし方によっては、この世で苦しみのない暮らしもできるはずだ」と思っていました。
 
 そんな考えの私にとって、一切皆苦と言い切る言葉の意味がつかめませんでした。
 誰しも、喜びを求めるだろう、幸せを求めるだろう、仲良く暮らしたいだろう、平和がいいに決まっている。そして、それは真剣に求めれば求められるものだろうし、人間の権利だろう。求めることは間違っていない、と思っていました。
 
 しかし、歳を経るにつれて、この考え方も変わってきました。
 
 「疎外」という言葉を知りました。
 喜びや楽しみを味わうと、それを持続させたくなりますし、更に大きくしたいという欲も生まれます。疎外とは、自分の喜び、楽しみを得るために、他者をその欲望達成の道具、手段としかみなくなることです。自分自身に対しても、「今ここ」をいつの日かの手段や道具にしてしまうことです。自分の思う通りにならないと、イライラしたり、怒ったりします。正義あるがゆえに怒るという人がいたりしますが、怒るために正義を持ちだしていることが多いように思います。
 
 フロムは、多くの人にとって、四聖諦のうち、第一諦の苦諦、つまり一切皆苦が、他の諦と比べて、なかなか理解しづらいであろうといったそうです。
 
 仏教には、三毒という表現があります。貪欲、怒り、無知のことです。貪欲と怒りについては先ほど簡単に述べましたが、私にとっての無知とは、空であることを実体視することです。
 
 捨てるとか、出離とか出世間とは、世間的常識から出ることだと思います。離れるべき世間的常識のひとつがものごとの実体視だと思っています。
 
 さて、どうやって世間的常識や実体視から離れることができるでしょうか。
 
 一つに、止観瞑想だと思っています。一つに言語学。そしてそれらを踏まえた太極拳舞踏です。今ここに現に起こっていることを先ず観察し続ける。思考も今起こっていることですが、先ずはからだに起こっていることを見続ける。見続けることができるようになってから、改めて思考の生滅の過程を見つめ続けます。色受想行識。

ところで、喜びや楽しみが疎外に繋がりやすいとは言え、喜ぶこと、楽しむことを否定するのは如何なものかと思っています。ですので、私は「無欲」という言葉は使いません。

 欲の一切否定とか、完全脱力への希求は、欲や脱力ということを、実体視しているように感じています。
 
 「捨て果てて身は無きものと思へども雪の降る日は寒くこそあれ」と西行一遍上人が詠い、「花の降る日は浮かれこそすれ」と芭蕉が更に詠いました。

 
 太極拳舞踏は、先ず卵を立てます。
 次に、立禅、歩禅、シャバ・アーサナのポーズでの止の瞑想、アウェアネスの後、実技で二人一組になり舞踏的推手を行います。足裏で、皮膚で大地や相手を感じつつ、環境の気を感じて二人で動きをつくりだします。完全な脱力が無くても、お互いに預け合うことができ、二人の間の境界が消えていく「空観」をからだでかんじてみましょう。
 
 そののち、かつて抱いた貪りや怒りをもう一度見直してみましょう。
 
 からだがゆるんでいると、ゆるしが生まれます。 調身すなわち調息、調心となります。