予定 預定落空

ゲストハウスの本棚を整理しました。
何冊かあった「禅」に関する入門書は、残らず書庫に片付けました。
 
それらの本は、作法・技法としては参考になるのですが、
基本的な考え方・世界観については、私にはあいませんでした。
(禅を否定しているのではなく、それらの本の解説があわなかったということです。)
 
その最たるものが「無」です。
 
人は一人では生きていけません。
社会の中で、社会人として生きる以上、何らかの予定を立てて生きていきます。
 
しかし、ひとがたてた予定というのは、その通りになるとは限りません。
 
自分のたてた予定通りにならない、思い通りにならないことを、「苦」といいます。
 
予定通りにならないとき、思い通りにならないときどうするか、
「予定など立てるな」と言い切る人がいたりします。
 
「一切予定を立てない」「無」ということと「予定に縛られない」
似ているようで、同じではありません。
 
以前にもこのブログでかいたように
「予定を立てない」というのは「因果に落ちず」に通じているように思います。
 
同じく
「予定に縛られない」は、「因果に眩まず」に通じているように思います。
 
入門書だけに、「予定を立てる、立てない」の二元論的な説明をしている印象を受けました。
 
 
最近、自閉症傾向と診断された人々が、自身の体験を書いた本を読んでいます。
 
その中で、よく出てくる体験が、親や恋人や、クラスメートの顔を覚えられなかった、という体験です。
 
顔が見分けられないのは、弁別ということができないのではなく、
限りなく弁別してしまうから?と思いました。
 
例えば、母親の顔を他の人々から見分ける・弁別するには、母親の顔の部分部分に現れる変化の中から般化しなくてはなりません。般化と弁別というのは単純な二元ではなく、階層構造になっているということでしょう。
 
予定を立てる、立てないというのも、単純な二元論ではないとおもいます。