地図は現地ではない 講座資料

地図と現地

昨日の講座で使った資料です。
   
はじめに
私達の人生には、生老病死の誰もが避けて通れない実存的な課題や、仕事や経済、人間関係などの処世的な課題が多くあります。それらの課題において、自分の理想や理念と現実体験が一致しないとき苦しみとなります。理想とか理念は、言語・記号で記述されていて、私達は情報を伝達する時、考えるとき、認識する時、決断し行動する時、この言語・記号を道具・媒体して使います。ですので、課題解決において、言語・記号の働きや副作用について適切に知っておくことが大切になってきます。そこで最初に、一般意味論、記号と人間の関係についてのワークを行います。
    
一般意味論ワーク
      
ワーク1 (話し合い)記号ってなんだろう? 記号さがし
いま、ここで観察されることで、これは記号であると思われることを述べてみてください。例えば、話し言葉、本、家具、活けてある花、服装、ヘアスタイル、顔、肌の焼け具合、爪の長さ、座席の位置、旗、お金etc
辞書には、記号とは
<情報伝達や思考・感情・芸術などの精神行為の働きを助ける媒体のこと>と説明されています。
      
ワーク2(話し合い) 記号の作用 分類 弁別と般化 階層性 抽象化                   
さて、色々な記号と思われることをさがしましたが、
「記号はモノそのものではない。The symbol is not the thing symbolized.」
「モノの名前(報告)は、名づけられたもの(報告されるもの)ではない」ということに納得しますか?
「モノの名前は(例えばりんごであろうと王林であろうと)、現に目の前にあるそのモノのことではなく、そのモノが属するクラスにつけられたラベルです。」
    
私達の身の回りのものごとには「名前・記号」がついています。右上図を見てください。<王林>はりんごです。<つがる>もりんごです。<ふじ>もりんごです。王林、つがる、ふじなどをまとめて「りんご」と呼ぶことを「般化」といいます。逆に同じりんごであっても、それらを王林、つがる、ふじなどに分けることを「弁別」といいます。
(普通、これはりんごです。This is an apple. と私達は表現しますが、より現実に近い表現をすれば、「これはりんごといわれるグループに属する<あるもの>です」This is a certain thing belonging to the group called apple.となるでしょう。でも、それでは情報伝達の効率がよくないです。そこで省略形を使ううちに、それが省略形であることを忘れ、通常の使い方になっています。)
     
「記号はモノそのものではない。」ということを、コージプスキーは、「地図は現地ではない」といいました。
「一般に机と呼ばれるグループに属する<それ>の上にある、一般にノートと呼ばれるクラスに属する<あれ>を取ってくれる?」というところを、「机の上のノートとってくれる。」といい、通常はそれで用が足ります。こういった事例では、記号の持つ副作用といったことはあまり感じられません。
        
ワーク3 地図を描いてみる 弁別は何処までが適切でしょうか?
 今日の講座の会場にいちばん近い駅からここまでの地図を描いてみましょう。
      
<コトバの魅力 コトバの魔力 分類 分離>
 ある時、二人で壁に棚を取り付けていました。脚立の上にいる人が、脚立の傍にいる人に言います。「そこの大具道具とってください。」下にいる人は、道具箱全部を渡してしまうかもしれません。大具道具だけでは、欲しい道具が金槌なのか鋸なのかわかりません。大工道具とは、鑿とか鉋とか鋸、金槌などを般化したものです。それらの個々の道具が属するグループにつけられたラベルです。大工道具を弁別していくとそれぞれの道具になります。そして、鉋もまた、二枚刃鉋、一枚刃鉋、長台鉋、反り台鉋などがあります。鉋は、大工道具という名称と較べると、大工道具に属する個々の道具であり、同時に更に弁別される道具が属するグループにつけられたラベルです。
 コトバの魅力としては、このように物事を細かく分類、階層化できることです。情報の中身の違い(差異)を伝えることができます。釘を打つには、金槌という大具道具が最適で、鋸という大工道具を必要としていません。
 コトバの魅力は、同時に魔力(副作用)を産みます。私達は、目の前にある一本の樹の部分に色々な名前を付けて分けることができます。根、幹、枝、葉っぱ、花。花にしても、萼、花弁、めしべ、おしべと分けていくことができます。そうして分けているうちに、この世界に、言葉と対応した境界線があり、ばらばらの独立した要素が集まって世界ができていると思ってしまうことが魔力といえます。
      
 それは、正常、異常、健常、障害といった言葉に端的に表れます。ルアンダツチ族フツ族というのは、ヨーロッパの人々が19世紀に作った分類です。あなたの手と前腕の境界は何処にありますか?「肘という独立したモノ」があるのではありません。からだのある部分を肘と呼んでいるだけです。
 あなたは「障害者」という言葉をどのように定義し使っていますか?あなた自身は障害者ですか?
      
<般化と弁別の力>
 「太郎君はおとなしい性格の人間だ。」という人物像、あるいは、太郎君自身が自分自身に対して「私はおとなしい性格だ」という自己像を作ったとします。それは、いくつかの個別の行動から般化して作った人物像です。ある日、友達の芳男君といるとき、芳男君がよくしゃべり、太郎君は聞き役をしていた。先日、先生が質問した時、太郎君はわかっていたのに手をあげなかった、といった個々の出来事から、選択編集して、般化します。逆に、太郎君はおとなしい性格の人だといわれているけど、先日カラオケに行ったとき、聞いてるときは静かだったけど歌いだしたら人が変わったようなパフォーマンスをした。先日、飲みに行ったとき、自分からはあまり話さないけれど、酒がまわってきたらよく笑っていた、というのは弁別になるでしょう。
 私達が、般化や弁別、固定化や法則化をするのは、生活の効率を考えてのことだと思います。毎朝、その日の気候や気分に合わせて服を変えていたのでは、効率がよくないからでしょう。
 芹と毒芹を見分けて弁別しないと、生命にかかわりますが、人を顔全体ではなく目尻の皺で弁別するのは、効率的ではありません。
   
 いずれにせよ、記号を使って生活する時、弁別と般化、その階層化は避けられません。般化と弁別は、プラスに働くときもあれば、マイナスに働くこともあります。般化のマイナス面とは、固定化とか思い込みを生じることです。弁別のマイナス面とは、情報処理に時間がかかるということです。
       
ワーク4 (実技スケッチ)(般化の副作用:概念化することで、個別の事例の特性が抜け落ちたりします。)
皆さんは、自分の左手の存在を、はっきりと確信し、その姿を知っていると思っているでしょう。
では先ず、実物を見ないで、全部の指を伸ばした状態の自分の左手を描いてみてください。
   
 描きあがったスケッチを見ながら、確かめてください。掌を自分の方に向けて、指を全部伸ばした時、小指の先端は、隣の薬指のどの辺に来ますか?人差し指と薬指の先端を見比べてください。どちらが先にありますか? では、手の甲が自分の方に向くように手のひらを返してください。人差し指と薬指の先端を見比べてください。どちらの先端が先にありますか?
     
次に、5分以上かけて、自分の左手の親指をじっくり見ながら、スケッチしてください。
     
実物から目を話し、紙を見ながら「<顔>や<手>を描こう」としたら描くのが難しくなります。なぜなら<顔>というのはすでに出来上がっている概念で、実際に見えるのは、鼻や目や口です。でも同じように目を描こうとしたら、目の概念を忘れること。既にできあがっているこれが目であるという概念(地図)が邪魔をして、実物の「目」(現地)は描くのが難しくなります。目の前にあるのは、目という概念ではなく、瞼や目尻やまつ毛です。同じように睫毛を描こうとしたら、実際にそこに見えるのは、、、、、、、」という具合に更に弁別していくことができます。しかし、実際は、目の感覚器官の閾値までが可能です。つまり、裸眼で認識できる線と点のところまでです。そこから先は、各種の道具や概念作用によって弁別することが可能です。拡大鏡や顕微鏡といった道具、原子、電子、素粒子などの概念でという具合に。
     
「記号はモノそのものではありません」ということを少しは納得してきましたでしょうか?
      
<コトバの魅力 コトバの魔力 >
      
 コトバは時空を超えて、情報・智慧・知識を伝えることができます。ネアンデルタール人が滅んで、クロマニョン人が栄えたのは言語の力の差であるという説があります。出来事というのは、一回性の出来事で生じてはすぐに滅していきます。それを語ったり、書き残すことで、時空を超えることができます。これが、言葉の魅力ですが、同時に魔力ともなります。1週間前に買ってきたりんごが、テーブルの上に置かれています。一週間前のりんごも、今目の前にあるりんごも、同じくりんごと表現されます。しかしりんごに日付をつけると、(2013.2.1りんご)と(2013.2.8りんご)はおなじではありません。私達は、日付のつけていないコトバを使っているうちに、そのコトバに対応して、いつまでも変わらないモノがあるかのように錯覚してしまう傾向があります。例えば、愛、無意識、魂、山田太郎といった言葉に端的に現れます。これは、言葉の魅力に対して、魔力といえましょう。
        
記号・言葉は地図であって現地ではないのに、現地であると錯覚してしまう、これが記号・言葉の副作用のひとつでしょう。
      
ワーク5 地図と現地
     
昨年新聞紙上でよく使われた言葉のひとつが、「原発」だったと思います。
 首相官邸を、取り囲んだ人々のスローガンのひとつに「原発再稼働反対」という言葉・記号がありました。一方、経済界から発せられた言葉のひとつが、「原発は、1000年に一度の津波に耐えているのは素晴らしい。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」でした。どちらも原発という同じ記号・地図を使っています。
しかし、その地図に対応する現地は、同じなのでしょうか? 30キロ圏内に住んでいて非難した人にとっての現地、原発派遣労働者にとっての現地、地元で民宿を営む人の現地、隣町で子供を育てている母親の現地、電力債を買った人の現地、電力会社の株主や社員にとっての現地はそれぞれ違うように思います。
私達は、しばしば現地を離れて、地図だけで意見の交換、情報の交換、議論を始めたりします。それが齟齬、対立、争いを産んだりします。
      
「地図は現地とは違う」と言っても、それは、不可知論や独我論とは違います。
<媒介としてのコトバの魅力 媒介としてのコトバの魔力  詩歌>
紀貫之は、古今和歌集仮名序の中で<力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり>と述べています。
話し言葉は、空気の振動、書き言葉は紙についたインクや墨の染みですが、それが人の心を動かし、行動を産みます。あなたの人生に影響を与えたような「詩」「俳諧」「短歌」や「格言」はありますか?
結婚されている人は、どのようにプロポーズしましたか?
「Black is beautiful.」という言葉は、どれほど黒人の人々を勇気づけたでしょうか。
「よく見ればなずな花咲く垣根かな」(芭蕉44歳、貞享四年、1687年、江戸深川の草庵にて)
17文字の記号から、果てしなく世界が広がっていきます。
        
情報の伝達の媒介としての言葉や思考や認識における道具としての言葉は、言葉のうち「ロゴス」としての言葉だと思います。ヘブライ語に「ダーバール」という言葉があり、それは言葉であると同時に、わざとか歴史、出来事という意味があります。コトバのロゴスの面だけを見ると、不可知論や独我論へ落ち込みやすいと思います。
        
日常での応用
相談者:最近私たち夫婦は倦怠期なんですよ。それがつらくて。
カウンセラー:それはつらいですね。50歳代の夫婦にはよくあることです。実は私にもかつてそういう時期がありました。よくわかります。
さて、この会話は通じているのでしょうか?
          
「解決」というのも言葉・記号です。(苦杯ということ)(留保)(受容)(Be here now)(永久の未完成)
       
私達はふつう、「課題が解決する」といえば、自分にとって都合のいい方向に結果が出る、状況が変わることをいったりします。でも、一時的な都合の良い変化はあっても、私達のからだというのはある年齢を過ぎると、必ず老いていきますし、やがて必ず死ぬことになります。世の中の状況も、環境もいい方に変化するとは限りません。(良い方に変わっていると信じるほうが、当面の精神の安定は得られるでしょう)
 仮に、この世から戦争が亡くなり、格差もなくなり、環境問題も解決されたとしましょう。解決されたその日に、大地震が起こるかもしれません。自分にとって都合の良い方に自分自身も周りの環境も変わることを願うのは、私達の基本的な願いかもしれませんが、その願いはかなえられる保証がありません。
解決(resolution)というのは、モノゴトの関係や流れを「解」明して、態度を「決」すること、と私は思
っています。明日は永遠の謎として、どのような日であろうとも「信・愛」を選ぶ決心。その決心があって、次に何らかの方法が語られるのだと思います。