皮膚に対して止観瞑想していると、私が忘れ去られていく

k1s2013-02-08

「自分にとって都合の良い」とはどういうことか、
「自分」をめぐっての要素論とシステム論 
脳の局在論を題材に
 
自分にとって都合がよくなるように、自分自身に対して、隣人に対して、環境に対して働きかける(操作する)ということは、生物一般の基本活動であるように思います。
 
その時、自分にだけ都合がよくなることのみを選択すると、人間世界では、エゴイズムといわれたりします。自分にとっても、隣人にとっても、世界全体にとっても都合がよくなるような道を選択するのが、ベストでしょうが、余裕がないときには、やはり「自分」を優先してしまいがちです。
 
「苦しみ」の真っただ中にいる時、隣人の苦しみもよりわかるとは限りません。「自分の苦しみ」から逃れたいがために、隣人の苦しみや都合がみえなくなることも多々あるように思います。
 
私と隣人、私と世界との間には、境として皮膚があり、そこではっきり区切られているという感覚は、単純で一般的な世界観であるように思います。
 
世界はそうやって、何らかの区切りを持ち、独立したものが集まってできているという、感覚が捉えたままの世界観を、私達は成長過程の初めの頃、言葉で以て世界を認識し始めるころに持つのではないでしょうか。
 
そのような「世界から分離独立した自分」にとって都合がよくなるようにと意図して活動し、隣の人も同じくそのように意図して活動し、隣人と利害が一致すればいいのですが、一致しないことが多く、対立し、苦しむことが多いように思います。
 
世界に対しても、又自分自身に対しても、いつまでも元気でいたいという願いに対して、容赦なくからだは老いていき、地震や台風、日照りなどの災害が発生します。私達は、それをとめようがありません。そして苦しみます。
 
そういった姿に対して、仏教の用語に「一切皆苦」という言葉があります。
一切は無常であり、無常であるものは苦であると。
一方同じ仏教に、「涅槃」という言葉もあります。
 
一切皆苦」から「涅槃」への架け橋は何処にあるのでしょう。
 
私は、「自分」「自分と隣人」「自分と世界」をどうとらえるかによって違ってくると思っています。
 
先ずこの世界から分離し独立した自分というモノが存在するという捉え方(要素論)が、「一切皆苦」につながると。
 
この「世界から分離独立した自分というモノが存在している」と捉えるのが、世界のありのままの捉え方であると思ってしまうのは、私達が使う言葉に対して、そのコトバの作用を自覚していないからではないかと。コトバの作用を見直し、自覚してもう一度世界をみつめなおしてみると、別の世界が見えてくるのではないかと。
 
仏教の原始仏典、阿含経の中に「一切」という短いお経があります。

 <一切> 南伝 相応部経典 35−23
「比丘たちよ、なにをか一切となすであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである。」
 
仏陀は、一切は「色(外の世界)と受(それを捉える感覚システム)」から成り立っているというのです。唯物論でもなく、独我論でもなく、現代の認識論がたどりついたところ、観察の理論負荷性や「地図は現地ではないこと」、私達が捉えている世界の構造は仮説の体系から成り立っているという視点に、東洋の瞑想者たちは千数百年前にたどり着いていました。
 
学生の頃、解剖学や生理学で脳の機能局在論を習いました。今でも、学校では習うのではないでしょうか。
カナダの脳神経外科ペンフィールドは、てんかん患者の同意のもと、大脳皮質に電気刺激を与えることで、大脳皮質と身体運動や感覚と対応関係にあることを確認し、身体地図(ホムンクルス)を作りました。このように、脳のある部分がある機能と対応していることは、確かなことでしょう。しかし、その部分が生まれつきその機能を担っていて、一生変わらないのかというと、断定できません。
 
独立要素論のみで脳の機能局在論を捉えてしまうと、リハビリの可能性が狭くなってしまいます。といって、機能局在論を無視してしまうと、過度な期待を持ってしまうことになります。私自身の経験としては、交通事故の脳挫傷により、集中治療室で一か月意識を失っていた人のリハビリに係ったことがあります。ある病院では、これ以上の回復(通常の歩行やひざの屈曲)は望めないと言われていたのですが、認知運動療法を参考にしてリハビリすることで、今は通常に歩行し、車の運転もできています。
 
このことによって、要素論は間違いであり、システム論が正しいと、私は主張するのではありません。モノの見方、理論がその後の可能性に影響を与えると思っています。
 
さて私ですが、「私」は「皮膚」で以て、隣人やこの世界と分け隔てられているのでしょうか。
分け隔てられていると思います。
同時に、私は、呼吸し、水を飲み、光を浴び、音に耳を傾け、香りを楽しみ、風を感じています。
 
分け隔てられていて、同時に分け隔てられている訳でもありません。
 
私の生が、周りの人々や未来の人々の生に影響し、
周りの人々の暮らしや過去の人々の生が、私の生に大きく影響します。
例えば、今私が現に使っている言葉は、私が発明したものではありません。

 
そして、分け隔てているその皮膚(目や耳や鼻や口も皮膚です)で、あなたや世界を感じることができるのですから。