死苦と人生無意味症候群について 2013.8.6

 一休禅師と仙?義梵禅師の辞世の言葉は、「死にとうない」だったと伝えられていますが、その真意はどこにあるのでしょう。ひとの言葉は、前後の文脈や関係のちかしさ、聞く側の理解度のちがいによって受け取り方も違ってくることでしょう。一休禅師は、「秋風一夜百千年」、仙?義梵禅師は、「鶴は千年、 亀は万年、 我は天年」ともいっています。
      
仏教から出た言葉に「四苦八苦」という言葉があります。四苦とは生老病死の苦です。
そのうち、死苦とは、文字の通り死にまつわる苦しみの事ですが、死ぬ時の痛みや苦しみそのもののことだけでなく、人間はやがて必ず死んでしまうのだ、という思いから生まれる苦しみの事も含まれるでしょう。
      
 「どんなに努力しても、いつの時代も、人間社会は汚辱と矛盾に満ちている。そして私は、やがて必ず死んでしまう。だから一切は、無意味・空虚なのではなかろうか」という思いを、思春期の若者なら、多くの人が体験しているのではないでしょうか?
      
 そういう思いを抱いたとしても、多くの人は、生への渇望や諸々の縁や現実的なしがらみなどによって、その思いから離れます。
      
 以後は、その人の置かれた状況とか縁によっておこる出来事とか、年齢によって、その人なりに、その思いと向き合うことでしょう。
        
 「人はやがて死んでしまうのだ」ということに、朝から晩まで一時も離れずに向き合う人はめったにいないでしょうが、それでも「人間社会の汚辱や矛盾、死ぬことへの態度」は、その人の人生・生活の色合いに、深く影響を与えていることでしょう。
         
 死苦については、先ほど言ったように、臨終における肉体的な痛みや苦しみ、孤独感への恐れと、私が消滅し、無になってしまう虚しさ、無意味さへの苦しみがあるとおもいますが、ここでは後の方の「無意味さ」について話を進めていきましょう。
      
       
死苦への対策として、死後の世界を信じるという「すべ」があります。
死後世界がどの様な世界なのかについては、実に色々な想定があるでしょうが、ともかく死後世界を信じ終わりを先延ばしすることで、無意味さを乗り越えるという「すべ」です。
        
しかしこの方法は、啓蒙主義、合理主義を経て、科学思想の中で、近代的自我を育ててきた多くの人々には、実行することが困難だと思います。
       
 例え、信じることができたとしても、死後世界で、充実した人生を歩めるのか、そこでもまた苦しむのかということの問題が残ります。
       
 ルターと共に、キリスト教世界で宗教改革を推進したカルヴァンは、「予定説」をのべました。カルヴァンによれば、「神の救済にあずかる者と、滅びに至る者が予め決められている」とされます。現代のアメリカのキリスト教は、このカルヴァンの流れの中にいます。
選民思想にもつながります。
       
そして、マックス・ウェーバーは、この予定説が資本主義を発展させたと述べています。
        
< 救済に与れるかどうか全く不明であり、現世での善行も意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るほかないように思われる。現世でどう生きようとも救済される者は予め決まっているというのであるなら、快楽にふけるというドラスティックな対応をする者もありうるはずだ。しかし人々は実際には、「全能の神に救われるように予め定められた人間は、禁欲的に天命を務めて成功する人間のはずである」という思想を持った。そして、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが結果的に資本主義を発達させた、という論理である。> (ウィキペディアより引用)
         
ウェーバーの説が正しいかどうかはわかりませんが、確かに資本主義は、カルヴァン派の多い地方や国で発展しました。
         
メメントモリ(死を忘れるな)」ということばがありますが、死苦を忘れるために、地位財産・快楽などを追い求めるということもあるでしょうし、死後の世界の安楽の確信を得るために、富の追求に走るということもあると思います。
         
しかし、人は必ず老いていきます。年齢と共に、死苦が想像の世界から、現実の世界に近づいてきます。
         
「人生は無意味だ」と主張し、それに対してどう生きるかを述べる文学者、哲学者、科学者、宗教家の数は、沢山あります。その対策については、人の数だけあるようにも思います。 さて、あなたの場合はどうですか?
          
死苦とどう向き合うか、態度をどう決断するかは、人それぞれだと思います。
         
人それぞれであっても、ひとは共同生活を営みながら暮らしています。死苦への態度決断のちがいが、共同生活の維持に大きく影響します。
        
沐浴斎戒の生活を志す人とスタミナで栄養をつけようとする人とでは、一緒に暮らすのは困難です。
         
<< 科学と死苦の関係について 要素還元論>>
        
科学は中立であり、主観がない、と一般的には言われます。つまり科学は、生きることに意味があるともないとも主張しないといわれます。しかし、これは違うと思います。
科学には前提があり、充分何らかのことを主張しています。
        
現代人の多くは、近代科学思想の影響を多く受けています。近代科学思想の基本前提は、唯物主義であり、要素還元論です。 つまり、近代科学は、唯物主義や要素還元論を価値あるものと前提しています。人間の理性や合理主義を価値あるものとしています。進化論を価値あるものとしています。
そして、科学信仰が観察されます。つまり、人間の理性に基づく科学技術が人間の抱えている問題を解消するであろうという信仰です。しかし、原爆や原子力発電を見れば明らかなように、科学技術は新たな苦しみを産みだしています。
        
また、科学技術の発達により、確かに人間の寿命は延長しています。臓器移植、遺伝子操作、iPS細胞などによって、不老不死への取り組みも進められています。しかし、近代科学は、個人の死苦に関して言えば、唯物論であり、死後の世界を否定しているように思います。それゆえの延命操作でしょう。
        
<< 行動分析学と死苦 >>
行動分析学は、外から観察できるからだの動きだけでなく、思考もまた行動と捉えます。人間が死についていろいろ考え、感情を生じさせ、態度を決める事も行動に含まれます。死についていろいろ考え、苦しむことも行動です。行動分析学では、行動を<行動に先立つ環境の変化によって誘発されるレスポンデント行動>と<行動の後の環境変化によってその生起頻度が変化するオペラント行動>の二つに分けます。
もしかして、死について考え湧いてくる感情行動は、あるがまま自然のものではなく、条件反射づけられた(学習された)ものかもしれません。
        
<< 要素還元論有機全体論 >>(水素と酸素を調べても、水のことはわからない)
近代科学は、おおよそ要素還元論を前提としています。個人の行動が環境との相互作用として生じると捉えるにしても、個人と環境を別々の要素として前提します。
一番簡単な要素還元論は、二元論です。世界を対立した二項に分けて捉えます。勧善懲悪も二元論に含まれます。善を勧め悪を取り除く。生死に分け、生を価値あるものとし、死を避ける。善と悪は、お互い相容れない別々の要素として捉えます。
要素還元論の世界では、因があって果をもたらします。因と果は別です。有機全体論では、因は同時に果であり、果は因でもあります。
        
死苦という言葉を使用して文章を書いてきましたが、死苦という独立した要素があると捉えるとしたら、それも要素還元論的な見方です。死苦もまた、縁起によって生じていると捉えるのが有機全体論です。
        
<< 一切は無意味だという言明について >>
 「今まで普遍的に意味があると当然思ってきたことがらが、実はそうではなかった」という体験実感と、「人はやがて必ず死んでしまう、だから一切は無意味だ」という意見との間には、飛躍があります。
 前者は、「ある事柄」において、確定した意味はなかった、ということを言っているのであり、後者は「一切」について述べています。
「一切は無意味だ」という弁明・主張自体が矛盾しています。「一切は無意味だ」と言明しながら、そうやって断定し主張することに意味を置いているからです。
 一切は無意味だと断定する自我の傲慢さの方が、苦しみの原因かもしれません。
        
<<再びメメントモリ>>
 
 死に恐怖を感じ、その死を忘れるために享楽に走ると生き方は、あまりお勧めできません。享楽とまではいかなくとも、死を恐れ、わが身を守るために、(要素還元論の前提に立ち)我が身第一にして他者と競争すること、幸せの条件を色々設定し、条件を満たそうと努力することもお勧めできません。むしろ、死を忘れずに、向き合うことをお勧めします。
        
 向き合うことで、私たちは、死そのものを捉えることも、克服することもできないと感じることができるのではないでしょうか?
          
私にとって竹山道雄著「ビルマの竪琴」は、とても縁深い作品です。主人公の水島一等兵は、戦後日本へは帰らず、ビルマの僧侶となり、ビルマで戦死し、放置されたままの人々を弔い続けます。戦友にあてた手紙の中でこう語ります。
       
< 山を攀じ、川を渡って、そこに草生す屍、水漬く屍を葬りながら、私はつくづく疑念に苦しめられました。一体この世には、なにゆえにこのような悲惨があるのだろうか。何故に、このような不可解な苦悩があるのだろうか。我々はこれをどう考うべきなのか。そうして、こういうことに対してはどういう態度を取るべきなのか?
 この疑念に対しては教えられました。この「なにゆえに」ということは、しょせん人間には如何に考えてもわからないことだ。我らはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらすものとして行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身を以て証するものたるの力を示せ、と。このことがはっきりとした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願いたします。 (金の星社刊 210頁)>
      
いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身を以て証するには、全ての中に神・仏があるという汎神論や悉有仏性論ではなく、全ては神・仏の中に宿るという「汎在神論」や「仏性顕在論」を生きることでは、と思っています。
すべてのものが、我々が捉え切れない神・仏の中に宿るゆえに、「善人名をもて往生をとぐ、況や悪人をや(二元論・要素還元論からの離脱)」なのでしょう。