不良成人学校8月


 「生きる」ということは、(数えきれない諸関係に包まれた途上の私が、)目の前の課題にどう対処すべきか、自分で考え、決断し、行動し、結果を受け取り、次の課題に向き合うことの連続です。


 私たち人間も、ほかの動物たちと同じく、基本的には、生まれながら身についている無条件反射によって活動します。(例えば、言葉の介在を必要としない消化や排せつ、体温調節。免疫。) と同時に、ほかの動物たちとは違って、生後に学習した知識と反射行動によっても行動します。 人間は、「ことばや数式」を使ってあれこれ考え、火を使い、道具を発明し、使います。自動車を運転し、携帯電話やお金を使います。世界観や価値観をめぐって戦うのは、地球史の中で、人間だけです。


 現在、地球人口は、約74億人といわれます。しかし、すべての人が、生き甲斐ある創造的人生をあゆんでいるわけでもありません。環境破壊、貧富の格差拡大、戦争、疎外、孤独、虚無感など多くの課題があります。また、「一切皆苦」という仏教の言葉があるように、いつの時代にあっても、生老病死や家族・人間関係、性差から生まれる苦しみは、一生の課題です。
 

 私たち人間は、課題を前にして、経験から学び、解決法を色々工夫してきました。今もその途上です。 その工夫の一つが、知識と論理と技術の集積である「科学諸学」と「瞑想」です。
(科学諸学:医学全般、社会心理学、行動学、生態学文化人類学言語学社会学などあらゆる学問)


 「瞑想」は、非日常非現実的な世界に遊ぶことや無念無想になることではなく、目の前にある課題を解決する「集中力」と「智慧」を生み出す自覚的な実践のことを言います。


 課題を解決するには、課題と向き合う集中力と丁寧正確に観察する観察力が必要です。課題は、一因一果といった単純・簡単なものではありません。 古今東西、瞑想と名付けられたものはたくさんありますが、瞑想は、おおよそ「集中」と「観察・思考」からなっています。集中する状況を生み出す過程、知覚を調整・階層化する過程を「止観瞑想」では、止・samathaといい、調整・階層化された知覚で思考する過程、その思考の過程を観察する過程を観・vipasyanaといいます。


〇なぜ「止観瞑想」か?
 「科学」と「瞑想」の関係からいうと、科学も集中力をもって、この世界を観察し、正確なデータを集め、推論することが基本です。科学技術の発達により、かつては人間の目では直接観察できなかった細かなことや遠くのこと、身体の内部などが観察できるようになりました。(電子顕微鏡電波望遠鏡MRIなど)


 しかし、科学によって唯一絶対の真理・解決法が見いだされるわけではありません。そのよりどころとする前提理論や世界観によって違う観察・仮説・結論が導かれます。例えば、水俣病の原因が有機水銀であることを、行政は最初は認めませんでした。宇宙の歴史は、138億年といわれますが、いつ生命が誕生したのかは、今も謎です。


 その科学を観察し、よりどころとなっている知覚、言語、理論や世界・人間観を観察するのが「瞑想」です。ともすれば、科学は自らの観察・認知の能力の限界を忘れがちになります。人間の感覚・認知過程を観察し、限界を自覚させるのが瞑想です。導かれた結論に対し、本当にそれでいいのかと問うのが瞑想です。瞑想とは、信じて疑うことのない自明の常識への問いかけです。課題解決において、今なお世間の常識は、自覚のないままの要素論・二元論であったり、実体論であったりします。
 「全一」の「一」と、「一、二、三、四」の「一」の違いが分かっていなかったりします。
一神教の「一」は、全一の「一」であり、一、二、三の「一」ではありません。)


〈止・samatha・シャマタ〉について
 息を整え、姿勢を整えることで、物事に集中し続ける状態をつくりだすことができます。
 意識が今ここに集中することで、過去や未来への思いがなくなり、悔恨や不安といった感情が消えていきます。身体的な痛みに関しても、今ここの痛みだけに限定されていきます。
 一番基本的な方法は、自分の息を見つめ、吐いているときは、「吐いている」、吸っているときは、「吸っている」と心の中で唱えます。意識的に、息を長く深くしようとはせず、みつめるだけでいいです。見つめるだけで、自然に深く長い息になります。姿勢が整っていきます。

 呼吸の過程を余すことなく見ることができるようになったら、次は認識や行動が生まれる過程を余すことなく見つめます。(原始仏典・四念処経 般若心経・色受想行識)

 坐り方については、背筋が伸びて、余計な力が入らない坐り方なら、どのような坐り方でもいいです。結跏趺坐とか半跏趺坐といった坐り方は、よっぽど下半身が柔らかくて坐りなれている人以外は、選ばないほうがいいと思います。苦行ではありませんので、楽な坐り方がいいです。岡田式静座法は、正座の姿勢で行います。(より細かな実践法は、対面でお伝えします。)


〈観・vipasyana・ビパッシャナ〉について
 意馬心猿ということばがあります。私たちの意識や心は、荒れ狂う馬のよう、酔っぱらった猿のよう、という意味です。私たちの意識の流れや行動を一日中観察してみると、自分の自由意思で、意識的に考え事や行動を起こしているようでいて、実は外界からの刺激に、習慣的、機械的に反応していたりします。例えば、「母語を使って考え事をする」、「何かに腹を立てる」といったことは、習慣的な学習行動です。時間が、過去現在未来と均一に流れていくように見えるのも、過去現在未来という時制のある母語や時計時間を通しての条件反射づけられた時間感覚です。名づけられたものが、そこに実体としてあるかのように思ってしまう素朴実在論も、条件反射づけられた強力な錯覚です。

外界からの刺激とそれを処理する感覚や理論や世界観を階層的に整理して、集中的に自分の課題に向き合い続けることを、「観」といいます。(道元禅師の只管打坐、ベイトソンの精神の生態学など)


8月の「不良成人学校」は、久しぶりに止観瞑想実践講座を行います。参加費無料です。
日時 2018年 8月26日 日曜日 ?午後2時より ?午後7時より
場所 NPO熊野みんなの家 0735−30−4560
ゆったりとした服装でお越しください。